4/23/2013

「涙活」

<涙の数だけ強くなれるよ>
歌手の岡本真夜さんの曲「TOMORROW」はそんなフレーズではじまる。涙を流すときにはそれなりの原因があり、辛いもの。でも、それを積み重ねていけば行くほど人間は強くなる。そんな意味を伝えるこの言葉の優しさに心救われた人も多いかもしれない。

「涙活」という言葉を聞いた。
「就活」「婚活」「朝活」…と「◯◯活」が巷に溢れかえっている昨今に、ついに感情までもが活動化されてしまったのかバカヤローと、文句をぶちかまそうかと思ったけれど、この言葉、嫌いではない。涙が流れるところの根っこにある「共感」という感情の重要性を日々考えているなかで、それを養うために活動するというのは、現代を生きる上で非常に大事なことなのかもしれない。

輸送手段の発達や、インターネットの台頭により、世界は物理的に狭くなった。地球の裏側の貧困を即座に知ることができ、助けるための活動を考えることも、実際に手を差し伸べるために現地へ赴くことも、容易くなった。そんな急激な変化を目の当たりにした30年程前の思想家の多くは、「これで世界から貧困はなくなる」と近い未来を予想したのではないだろうか。30年後の現代。蓋を開けてみればそこに存在したのは「裕福な人」と「貧しいもの」の距離を近づけるための引力ではなかった。反対に、斥力が働いたと言う経済学者もいる。けれど、僕は思う。世界は物理的に狭くなったけれど、人間は感情的には広くも狭くもならなかったんだな、変わらなかったんだな、と。

それはある意味当然の結果である。いくら世界に僕らよりも貧しい人がいたとしても、僕たちは今日のラーメン、明日の勉強をほっておいて彼らのことを考える気にはどうしてもなれない。「無関心だ!」と慈善活動に精を出す人々からは怒りの声が届けられるけれど、そもそも「共感」なくして「関心」は存在し得ない。自分とは違った世界で暮らす人々に「関心」をもつためには、物理的なインフラを構築するのと同時に、精神的なインフラである「共感」の構築がかかせない。

そこで、「涙活」となる。誰かに何かに「共感」を持って初めて人の心は揺さぶられて、涙を流す。冒頭にあげた<涙の数だけ強くなれるよ>を言い換えるのであれば、<共感の数だけ強くなれるよ>となろうか。失恋や悩みという受動的な悩みだけではなくて、未知なるものに能動的に共感してみよう、涙を流してみようというコンセプトの「涙活」であるのなら、とても大事なことではないか。

インターネットの効用は、そこに感情が生まれるということよりも、その伝達の速さと安さ。優れた物理的なインフラ。それに尽きる。その先にある精神的なインフラを構築するのは僕達ひとりひとりの小さな努力。
恩恵もリスクも、笑顔も悲しみも、等しく世界中に広がっていくようにするために。能動的に涙を流すというのは、一つのソリューションとなるのかもしれない。ストレス解消にもなるしね。そんなことを思った。

ちなみに涙がとまらなくなる僕のオススメの本が、重松清「その日のまえに」
泣きたいときなんかに、こっそりと読み返して、すっきりする。「涙活」のあとには何故か気持ちいい「笑顔活」が待っているから人間の感情は素敵だ。




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