4/27/2013

「穀雨」と「立夏」、「春眠」と「風薫る」、その間で。

昔に比べ季節感が薄れたと言われる。
南北に長い日本である。四季の美しさとそれらを大切に思う人々の気概。世界に誇る日本のソフトパワーのルーツだと思うのだが、それが衰退していくようではなんだか悲しい。季節感の薄れは、物流が整備されたことにより旬や見頃を追いかけることができるようになったからだろうか。季節の変化を待ち受ける心の余裕がなくなってきているからだろうか。人の心身の動き方が、ちょっとだけ、季節より早足になっているからかもしれない。

日本気象協会が「季節のことば36選」というものを発表したと新聞で読んだ。季節の言葉といえば24節句がある。太陽の見かけの通り道、横道を24分割したときの、15度ずつの季節のアラーム。コラムの書き出しに使われたりする言葉であるけれど、同年代の友達と「季節トーク」を交わすことは少ない。僕は結構好きなんだけどね。今は穀雨と立夏の間にあたり、暦が春から夏に変わる最中。今日はランニングの途中に夏の匂いを感じた。日付や曜日に縛られない、古くて新しい時間感覚を僕は大切にしたい。


新しい「季節のことば36選」をみると、今は「春眠」と「風薫る」の間にあたる。5月は暦の上では夏に、気象学では春に分類される。昨年の5月に書いたブログ記事「僕が、朝の電車が嫌いな理由」の冒頭に書いたけれど、季節には桜満開や夏真っ盛りといった「ピーク」がある。そのピークとピークを渡り歩くいまのような季節が、僕は一番好きだったりする。上に載せた表の上段・中段・下段には、春夏秋冬が綺麗に色分けされて分類されているけれど、実際には見事なグラデーションがかかっている。4月20日の「天声人語」より一部抜粋。
季節の移り変わりについて『徒然草』はいう。<春暮れてのち、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず>。一つの季節が終わるのを待って、次がやってくるのではない。兼好法師は続ける。<春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通い…>。兆した夏が、いつか春を追い払う。自然の息遣いとはそういうものか。
(4月20日朝日新聞朝刊「天声人語」より抜粋) 

昨晩、飲み会帰りに見上げた空に、丸い月が薄い雲にかくれて静かに輝いていた。「きれいだな…満月かな…」と思っていた。今朝の朝日新聞「天声人語」が答えをくれた。そうだったらしい。以下、再び本日の「天声人語」を抜粋。
(前略)潤むような夜に昇った、どこか重たげな月−−。若い日に読んだ懐かしい詩句を、ゆうべが春の満月だと知って胸に浮かべた。
「季節のことば36選」というものを、おととい日本気象教会が発表した。公募で集まった約1600の言葉から選んだといい、賛否を交えて話題を呼びそうだ。「おぼろ月」も入った。湿潤が輪郭をぼやかす図に。人は春を感じるらしい。
連休の旅は、夏を迎えに南へ行くか、春を追って北へ向かうか。もちろん帰郷も悪くない。<これが私の故郷だ/さやかに風も吹いている>。中也の詩に、そんな一節があったっけ。
(4月27日朝日新聞朝刊「天声人語」より抜粋)
季節の息遣いを忘れずに、大切に。

4/23/2013

「涙活」

<涙の数だけ強くなれるよ>
歌手の岡本真夜さんの曲「TOMORROW」はそんなフレーズではじまる。涙を流すときにはそれなりの原因があり、辛いもの。でも、それを積み重ねていけば行くほど人間は強くなる。そんな意味を伝えるこの言葉の優しさに心救われた人も多いかもしれない。

「涙活」という言葉を聞いた。
「就活」「婚活」「朝活」…と「◯◯活」が巷に溢れかえっている昨今に、ついに感情までもが活動化されてしまったのかバカヤローと、文句をぶちかまそうかと思ったけれど、この言葉、嫌いではない。涙が流れるところの根っこにある「共感」という感情の重要性を日々考えているなかで、それを養うために活動するというのは、現代を生きる上で非常に大事なことなのかもしれない。

輸送手段の発達や、インターネットの台頭により、世界は物理的に狭くなった。地球の裏側の貧困を即座に知ることができ、助けるための活動を考えることも、実際に手を差し伸べるために現地へ赴くことも、容易くなった。そんな急激な変化を目の当たりにした30年程前の思想家の多くは、「これで世界から貧困はなくなる」と近い未来を予想したのではないだろうか。30年後の現代。蓋を開けてみればそこに存在したのは「裕福な人」と「貧しいもの」の距離を近づけるための引力ではなかった。反対に、斥力が働いたと言う経済学者もいる。けれど、僕は思う。世界は物理的に狭くなったけれど、人間は感情的には広くも狭くもならなかったんだな、変わらなかったんだな、と。

それはある意味当然の結果である。いくら世界に僕らよりも貧しい人がいたとしても、僕たちは今日のラーメン、明日の勉強をほっておいて彼らのことを考える気にはどうしてもなれない。「無関心だ!」と慈善活動に精を出す人々からは怒りの声が届けられるけれど、そもそも「共感」なくして「関心」は存在し得ない。自分とは違った世界で暮らす人々に「関心」をもつためには、物理的なインフラを構築するのと同時に、精神的なインフラである「共感」の構築がかかせない。

そこで、「涙活」となる。誰かに何かに「共感」を持って初めて人の心は揺さぶられて、涙を流す。冒頭にあげた<涙の数だけ強くなれるよ>を言い換えるのであれば、<共感の数だけ強くなれるよ>となろうか。失恋や悩みという受動的な悩みだけではなくて、未知なるものに能動的に共感してみよう、涙を流してみようというコンセプトの「涙活」であるのなら、とても大事なことではないか。

インターネットの効用は、そこに感情が生まれるということよりも、その伝達の速さと安さ。優れた物理的なインフラ。それに尽きる。その先にある精神的なインフラを構築するのは僕達ひとりひとりの小さな努力。
恩恵もリスクも、笑顔も悲しみも、等しく世界中に広がっていくようにするために。能動的に涙を流すというのは、一つのソリューションとなるのかもしれない。ストレス解消にもなるしね。そんなことを思った。

ちなみに涙がとまらなくなる僕のオススメの本が、重松清「その日のまえに」
泣きたいときなんかに、こっそりと読み返して、すっきりする。「涙活」のあとには何故か気持ちいい「笑顔活」が待っているから人間の感情は素敵だ。




4/17/2013

大嫌いな「さとり世代」という言葉

胸クソ悪くなるぐらい嫌いな言葉や表現と出会うことがある。それは、時にして、自分自身のことを的確に表しているようなことばだったり、没個人化を促進させる日本人が得意なカテゴライズワードだったりする。嫌いな言葉を書き並べた結果、相対的に、自分自身が求める理想の自分像が炙りだされたりする。だから、ネガティブチェック、悪いことを考えてそこから考察を深めるという思考方法は優れていると僕は思う。

「さとり世代」という言葉を知った。
twitterなんかで広まった言葉であり、その言葉が指す集団はほぼ「ゆとり世代」と重なるという。もともとのこの言葉の始まりは日経新聞記者であった山岡拓さんの著作「欲しがらない若者たち」を語る2ちゃんねるのスレッドで、現代の若者の消費行動を綴った言葉に対してネット住民が名付けたもの。
この「さとり世代」の消費行動とはなにか。3月18日付けの朝日新聞にそれらがリストアップされていた。以下引用。

・車やブランド品に興味が無い
・必要以上に稼ぐ意欲はない
・パチンコなど賭け事をしない
・海外旅行への興味が薄い
・地元志向が強い
・恋愛に淡白
・過程より結果を重視
・主な情報源はインターネット
・読書も好きで物知り
(朝日新聞)
この言葉は、「いい言葉!」「面白いフレーズ」とネット上では大方ポジティブに取り扱われているらしい。

 ここから、僕の意見&感想。
言葉あそびであったとしても、僕と同年代の若者が「さとり」という言葉を盾にして「思考停止」に陥っている現状が本当に大嫌い。以前に"『思考停止型バカ』卒業のために憲法改正を考える"の中で書いたけれど、世の中には簡単には答えの出ないことがたーっくさんある。憲法改正、自殺する人の異常な多さ、原発問題といった社会的な問題から、彼女にあげるプレゼントはどうしようか、結婚とキャリアどうしようかという個人的な悩みまで。人生や社会とはそんな悩みや分岐路の連続。そして悩んだ結果、決断をすることがなによりも重要。それなのに、「悟った」とか何とか言ってすべてがお見通しであるかのごとく振舞って、決断をすることから避けたり、実務を伴わない上辺だけの知識を振りかざしてお茶を濁す。そんな「さとり」に一体なんの意味があるのだろうか。

「さとり世代」は意見を持たないことを良しとして自己肯定しか行わない、「思考停止バカ」を助長させる最悪の言葉であると僕は思う。もしも自分自身が「さとり世代」であるように思われたり自ら思ったりし始めているのであればすぐにその姿勢を正したい。


「初心忘るべからず」という格言がある。
この言葉は現在、
「物事に慣れてくると、慢心してしまいがちであるが、はじめたときの新鮮で謙虚な気持ち、志を忘れてはいけない」 
といった解釈で使われることが多い。しかし、元来の言葉の意味は少し異なる。能を大成させた世阿弥が編み出したこの言葉の本来は、「ぜひ初心忘れるべからず」「ときどきの初心忘れるべからず」「老後の初心忘るべからず」という「3つの初心」を語ったもの。
「これまで経験したことがないことに対して、自分の未熟さを受け入れながら、その新しい事柄に挑戦していく心構えが大事である」
という意味だ。


「初心」と「悟り」。
これらは正反対に位置している。僕は「初心」を大事にしていきたい。常に未熟であることを自覚して、学び続けていきたい。この気概が衰えたが最後、すなわち「さとり」始めたが最後、この世界から彩りがなくなっていくのではないかとすら思っている。


学び続ける姿勢を持ち、未熟さを感じ続ける環境に身を置き、初心を持ち続ける。悟るのなんて、死ぬ直前か孫かひ孫ができたらで充分でしょ。とりあえず「さとり世代」なんて言葉を僕達の世代から払拭したいと強く思っている。


酔いにまかせて少し強く汚い言葉も使ったけれど、これが僕の意見。

4/13/2013

就活の終わりの「虚しさ」は成長の合図

「なんかさ、会社が決まって嬉しい気持ちはもちろんあるんだけど、なんというか、こう、自分自身の視野がシューッと狭まっていく感覚がして凄く虚しいんだよね、今。」

就活を終盤に迎えた友達がふと、飲んでいる時にこぼした言葉。彼は学生のうちに起業も経験していて、行動力・バイタリティーにも溢れていて、内定をもらったり最終選考まで進んでいる会社の名前は誰もが知っていて憧れるような会社ばかり。そんな彼でも就活を終盤に迎えて「虚しさ」を強く感じているという。
この虚しさこそが、多くの人が社会人になってから「学生のときは良かった…」とこぼす理由だと思う。心に決めたこと、やりたいと思ったことであっても、僕たちはときに自分の進む道とは違ったほうを選んだときの景色を思い浮かべてしまう。「他の人生もあったのにな」とか、「こんなはずじゃなかったのにな」って。
「何かを得るためには何かを失う」
このルールの後半を忘れて、得ることにただ夢中になれる。20代前半までの学生の時間はそういう時間だ。そんな特別な時間の終焉を感じて、ルールの後半の「失うもの」の大きさに気がついたとき、僕たちは、すごく虚しさを感じる。


でも…それが社会に出るということなんだろうな、大人になることなんだろうな…と、周りの友の成長を肌で感じて僕は思う。自分自身の可能性を削って捨てて失って、飯を食うために残ったことに本気になること。与えられた仕事やチャンスや環境に感謝出来る人。
失いたくないからといってだらだらと言い訳や不満を言い続ける人もいて、得続けるためにじたばたと見苦しい努力をする人もいる。でも、僕がかっこよく美しいと思うのは、失ったものを悔しいなぁ悲しいなぁと感じながらもそれを心の奥に隠しておいて、今いる環境を笑顔と誇りで自慢できる人。素直である人。自らの決断を信じられる人。そんな人達だ。

就職活動を終えた友達が、突然大人に見えることがある。数ヶ月前は僕と同じ学生だったのに、なんだか雰囲気が変わったな…って。そう感じる彼/彼女の笑顔の背後にはきっと、なにか大きなものを失った経験や決断があるのだと思う。人は、失うものが大きな決断をすればするほど大人になる。とても僕には敵わない。

学生は自由で気楽であるけれど、それは失うものが少ない逃げの感情の溜まり場でもある。自分の力を誤認しているナルシスト、自分をさておき他人をとやかく言いたがる評論家、自分の立場を理解せず、関係ないことに口をはさむ分不相応な人の集まりだ。


シューカツの終わりに感じる「虚しさ」は、大人になるための第一歩だよ、きっと。
悩んで悩んで、ときには泣いて、でも決めたが最後素直になって、笑顔を作る。それが大人。それが成長。就活の季節の終わりが近づいて、一回りも二回りも大きくなった友達の笑顔に出会う機会が増え始めた。

お疲れ様。辛かったこと、悔しかった経験なんかはせいぜい酒の肴にとどめて。
捨てるもん捨て切ったら、のんびり飲みながら話そう。成長した皆の話を羨ましく思いながらも、楽しみにしてます。

4/07/2013

サン=テグジュペリ『人間の土地』

『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリ。
その出版に先駆けること4年前、飛行士としての経験から得られたコトを綴ったエッセイ集を彼は書いている。『人間の土地』。


僚友との別れ、戦争が終わり商業としての役割を担う飛行機、砂漠での不時着事故から経験した人間の極限…
なんで、サン=テグジュペリは『星の王子さま』を書けたのか。人間の本質を見抜くに至った経験とそこから生まれた思考が、「原石」のまま書かれている。
《とかく男の子というものは、駆けずりまわったり、難儀をしたりすることで、自分を強いと思っているものなのですよ》(同書p80)
僕は小さい頃から遠くへ遠くへ行くこと、冒険をすることが大好きだった。毎日のように自転車で街中を駆け回り、ときにはとにかく遠いところまで行き、日が暮れて場所がわからず迷子になり、ものすごい不安にかられて… そんなことを繰り返していた。それは今もほとんど変わらない。その行き先が、荒川の土手なのか、東京の街中なのか、インドの聖地なのか、チュニジアの砂漠なのか、それだけの違い。引用した文にあるように、そうやって、自分を強いと思いたがっているだけなのだろう。

少し訳が難解だったけれど、咀嚼し嚥下し吸収すると、ハッと気がつくほど素晴らしいことを言っている。心に残った言葉をインターネット上で見つけた英文と一緒に残しておく。備忘録。ときおり戻ってきたいな…そう思わせる本のリストに仲間入り。

以下、本文より引用。

 《何ものも、死んだ僚友のかけがえには絶対になりえない、旧友をつくることは不可能だ。何者も、あの多くの共通の思い出、ともに生きてきたあのおびただしい困難な時間、あのたびたびの仲違いや仲直りや、心のときめきの宝物の尊さにはおよばない。この種の友情は、二度とは得がたいものだ。樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ。
 これが人生だ。最初ぼくらはまず自分たちを豊富にした、多年ぼくらは木を植えてきた、それなのに、やがて時間がこの仕事をくずし、木を切り倒す年が来た。僚友たちが一人ずつぼくらから彼らの影を引き上げる。かてて加えて、ぼくらの喪に、今日以後、人知れぬ老いの嘆きが来て加わる。》 (p41)
“Nothing, in truth, can ever replace a lost companion. Old comrades cannot be manufactured. There is nothing that can equal the treasure of so many shared memories, so many bad times endured together, so many quarrels, reconciliations, heartfelt impulses. Friendships like that cannot be reconstructed. If you plant an oak, you will hope in vain to sit soon under its shade.
For such is life. We grow rich as we plant through the early years, but then come the years when time undoes our work and cuts down our trees. One by one our comrades deprive us of their shade, and within our mourning we always feel now the secret grief of growing old.  

 《人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。》(p58) 
“To be a man is, precisely, to be responsible. It is to feel shame at the sight of what seems to be unmerited misery. It is to take pride in a victory won by one's comrades. It is to feel, when setting one's stone, that one is contributing to the building of the world.” 

 《たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。》(p224)

 《戦争を拒まない一人に、戦争の災害を思い知らせたかったら、彼を野蛮人扱いしてはいけない。彼を批判するのに先立って、まず彼を理解しようと試みるべきだ。》(p217)

 《愛するということは、おたがいに顔を見あることではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ。》(p216) 
“Love is not just looking at each other, it's looking in the same direction.”  


4/01/2013

谷川俊太郎『あなたはそこに』

ルソーは『言語起源論』の中で、「最初の人間の言語は幾何学者の言語ではなく、詩人の言語であったと思われる。はじめ、人は詩で語り、ずっと後になってようやく理性に拠って考えることを思いついたのだ」と言っている。サン=テグジュペリはその『手帖』に、「物理学者と同じように、詩人も真理を検証する。ぼくは詩の真実をかくも強く信じている」と書き残した。
上の文章は、僕が今読んでいる電磁気学の本のまえがきにある言葉である。

物理とか理系の人が感性が乏しくロボット人間のようであると決めつけたのはどこのだれだろう。そんなことを最近思う。少なくとも僕が最近読んでいる理工図書の著者である有名大学の教授や学者が語る言葉は、美しく綺麗で、それでいてとても(時には過度に)ロマンチックであったりする。また、感性豊かでアーティスティックな友人もたくさんいる。
僕は「あいつは理系(文系)だから〜」という言葉を使わないようにしている。環境が人を作るという。それはある意味真実。だからといって、理系人間は感性を大事にしなくていいわけではなく、また、文系人間が分析を疎かにしてよいなんてことはない。
文理両道人間を目指したい。その両方があって初めて一人前の人間ではないかと僕は思う。

ルソーやサン=テグジュペリにならうわけではないけれど、詩が含有する真理や力強さに心打たれることが最近増えた。谷川俊太郎の『あなたはそこに』という詩にも感じるものがあった。

「あなたはそこに」 谷川俊太郎


あなたはそこにいた 退屈そうに 
右手に煙草 左手に白ワインのグラス 
部屋には三百人もの人がいたというのに 
地球には五十億もの人がいるというのに 
そこにあなたがいた ただひとり 
その日その瞬間 私の目の前に 

あなたの名前を知り あなたの仕事を知り 
やがてふろふき大根が好きなことを知り 
二次方程式が解けないことを知り 
私はあなたに恋し あなたはそれを笑い飛ばし 
いっしょにカラオケを歌いにいき 
そうして私たちは友達になった 

あなたは私に愚痴をこぼしてくれた 
私の自慢話を聞いてくれた 日々は過ぎ 
あなたは私の娘の誕生日にオルゴールを送ってくれ 
私はあなたの夫のキープしたウィスキーを飲み 
私の妻はいつもあなたにやきもちをやき 
私たちは友達だった 

ほんとうに出会った者に別れはこない 
あなたはまだそこにいる 
目をみはり私をみつめ 繰り返し私に語りかける 
あなたとの思い出が私を生かす 
早すぎたあなたの死すら私を生かす 
初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も 

春は別れの季節である。フェイスブック上では友達が卒業を報告し、新しい場所でのさらなる活躍を誓っている。共に時間を過ごした人との別れはつらいものであるけれど、"ほんとうに出会った者に別れはこない”と、谷川さんは言う。この言葉を信じたい。
そして、季節は今日を境に別れから出会いへと変わる。
新しい環境で頑張る人たちへ。別れの悲しみは、次第に出会いの喜びになる。それらが積み重なった思い出が「私を生かす」。

楽しもう、苦しもう、笑おう。頑張って!