6/11/2014

家族にとって大切なものを考える

映画を見ました。
「そして父になる」




今朝の新聞の社会面で各紙、同じ事件を取り上げていた。
「DNA鑑定か民法「嫡出推定」か 父子関係、最高裁で弁論」(日経)
「DNA鑑定:最高裁で弁論…法律上の父子関係取り消せるか」(毎日)
「父子関係、DNA鑑定で取り消されるか 最高裁で弁論」(朝日)

北海道の元夫婦と近畿地方の元夫婦が法廷で争っている。夫婦が婚姻関係にあるときに、妻が夫とは別の男性と交際し、子供を産んだ。DNA型鑑定を行い、99.99%血縁関係がないとわかった。しかし、民法には「嫡出推定」というものがあり、婚姻中の妊娠は夫の子とする原則がある。妻側は
「DNA型鑑定で判明された生物学的な父、そして現在養育をしている血縁上の父を法律上の父とするべき」
と訴え、夫側は
血縁がないことを理由に親子関係を否定すれば、養子縁組制度なども否定することになる」
「親子の絆は愛情を注いで築くもの。DNA鑑定だけで引き裂かれるのは受け入れられない」
と反論、互いに法律上の父子関係(親権)を得ようとしている。


新聞で報じられていた事件と、赤ちゃん取り違えを題材にした是枝監督の「そして父になる」は、形こそ違うけれど、同じことを世に問うている。
親子を「親子」たらしめるものは何なのか。
血のつながりか、愛した時間か。
家族のかたちを定めるものは何なのか。
法的な親子関係か、道徳観か。


是枝監督が、この映画を撮るきっかけとなったエピソードを昨年10月のAsahi Shinbun Globeで述べている。(→[第107回]血縁か、一緒に過ごす時間か
娘が3歳だったとき、撮影で2カ月くらい家を空けたことがあった。久しぶりに家に戻り、翌日仕事に行こうとすると、娘は一言、「また来てねー」と。僕としては、血のつながった父親だし、ちょっとくらい間があいてもすぐ父親に戻れる気がしていたのに、子どもの中では一緒にいる時間のほうが大事だったのだ。そんな出来事もあって、「血のつながり」と「一緒に過ごす時間」を次の作品のテーマにしたいと思うようになった。
そんなテーマを描いた作品は、多くの人の心をとらえた。


親子関係、家族のかたち、それらを法律や科学的根拠だけで定めることができるのだろうか。
家族の姿は多様化している。結婚していない男女間に子供が生まれること、性同一性生涯でトランスジェンダーした人を含む家族、或いはゲイ・レズビアン・バイセクシャル同士のカップルが精子・卵子提供を受け子供を授かるということも、日本ではまだまだ少ないけれど欧米では、ある。増えている。
3年前になるけれど、「母2人子2人」の家族を描いた映画「The Kids Are All Right 」を見た時にも、新しい家族のかたち、社会のしくみを少し考えた。
(→All Over Coffee 「The Kids Are All Right」


感情にしたがって、素直に答えれば、家族のかたちや親子のつながりは、「愛」をボンドにして存在すべきであると思う。「家族」=「?」なんて問題に、「法律」「血縁」「金」なんて無粋な言葉を選びたくはない。縛ることのできない、量ることのできない、大切ななにかを入れたいと思う。
でも、「The Kids Are All Right」で描かれているように、子供は、そして人は、自分自身の本当のルーツを知りたがり、そこに何か絶対的なものを感じるのではないだろうか。自らの選択で、或いは誰かの選択によって決められた生き方ではない、運命の計らいによって産み落とされたことなどに。
僕は、僕がここに存在していることに感謝をするときには、父さん母さん、その父さん母さん、ひいじい、ひいばあ、会ったことないご先祖様…そんな血のつながりを思い浮かべる。おじいちゃんの血液の4分の1、ひいばあの血液の8分の1が自分の中で流れているなんてことを思って、身を引き締める。


「親子関係はDNAが半分。あと半分はつくるものと思う」
今朝の記事を受けて、朝日新聞紙面では1977年に発覚した「赤ちゃん取り違え事件」のその後を取材したノンフィクション作家、奥野修司さんのこの言葉を引用していた。

家族のかたちはそれぞれで、画一的にさだめることはできない。
付き合った年月の積算値でも、DNA型鑑定の99.99%なんて数字でも打ち壊せないものを、時間と思いの掛け算なんかでつくるものなのだろう。
だから…家族との時間を大切にしたい。
映画を見て、涙を流しながら、そう思った。

(→All Over Coffee 「家族との時間は、僕達が考えているよりもずっと短い。」)

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