10/23/2013

教養は「当たり前の木」を愛すること

週末にあった留学報告会、そして今夏に研究留学を行っていた友人との立ち話で、「教養の大切さ」について話す機会があった。「教養」って聞くと難しく感じるけれど、僕はそれは「当たり前の木」を愛するとても楽しいことだと思っている。そんなことについて。


「『いただきます』って、どういう意味?
宗教的なものなの?
日本人ではない僕はやってはいけないのかな。」

僕の友人はアメリカでそう問われて答えに困ったという話をしていた。確かに僕達が当然のように言う「いただきます」は、日本人にとっては何も考えずにおこなう習慣となっていて、どのような意味であるかを考える機会はほとんどない。「当たり前」なのだ。みんなが知っている「当たり前」に関していちいち「なんでだろう」と考えたり疑問提起をすることは和を重んじる日本のコミュニティの中では異端の目を向けられることでもあるし、体力的にも精神的にも疲れる。だから、当たり前を疑わない。僕らは知らず知らずそう育ち生きてきたように感じる。


でも、その「当たり前」が「当たり前」ではない人と接するときには話は異なる。

「いただきます」を言わない人と話をするとき。
「神」という厳かな言葉を気軽に若い女の子グループには使わない人と話をするとき。
「民主主義」という国の良さを知らず、民主主義国家の力によって愛する人を亡くした人と話をするとき。
「平和」が当然ではない地域の人と話をするとき。
「桜」を見て美しいと感じない人と話をするとき。
「ヒロシマ・ナガサキ」の悲劇を悲しんでくてる人と話をするとき。

ぼくたちは、「」の中の当たり前を、しっかりと説明ができるだろうか。語るべきことを持たないのを英語ができないせいにしていないだろうか。生まれた国が違うから仕方ないと勝手にあきらめていないだろうか。


日本列島に生まれ、単一民族国家である日本人に共通していることは、その日本や日本国籍などにまつわる自明なものへの素朴なもたれかかりであるように感じる。その結果、民族的少数者や外国人、障害者や同性愛者といった社会のマイノリティに生きる人々は自明性から生まれるさまざまな抑圧や排除の矢面に立たされ、苦しんでいる。昨今のヘイトスピーチ問題なんかも、自らのことを知らず他者批判することで「当たり前の木」にただよりかかっている人々の虚しい声にしか僕には聞こえない。


一つの文化=「当たり前の木」がそこにあるのならば、その種を巻いた人がいて、育てた人がいて、長い長い年月の風雨を経験して、その木の恵を授かって生きた生物がいて…年輪の数だけ、木の幹の傷の数だけストーリーがある。僕は、図らずとも日本という当たり前の木のもとに生まれた。これからずっと付き合っていくつもりのこの木は絶えず身近にあるのだから、その木に刻まれた様々な物語を知りたいなぁと思っている。そしてこの木が今後もこの場所で立派に立ち続けるためにはどうすればいいのかと漠然と考え始めた。それが、そんなことが、僕は教養の始まりであると考える。


ちらっと見かけた広告に、こんなフレーズが書いてあった。
知らないことが多いってことは
これから知ることが
できることのほうが多いってことさ。
教養を意識して学び始めると、その量の多さや知らないことの多さに愕然としてしまうこともあるけれど、それだけ知ることができること、「当たり前の木」をもっと愛することができるようになるってことだと僕は思う。


とても概念的な話で終始してしまったけれど、教養の大切さについて、考えたこと。

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