週末は、たくさん話をした。
土曜日には小学校の先生をやっている友達と。GoogleのCMに出ているダンスの苦手なのび太くんみたいな風貌の彼にどことなーく似ている僕の友達は、国語の先生2年目。今年は5年生を受け持っているという。
小学校5年生ともなると憎たらしさやずる賢さを発揮し始める年齢。
「先生と◯◯ちゃんを教室で二人っきりにしたら先生捕まっちゃうんだよ−!」とか言われたり、早い子にはもう始まってる女の子のできごとのこととか。悩みも多いみたいだけれど、その分楽しみも多そうで。日々学んでいる彼に負けないで過ごしたいな…と思わせてくれる大切な友人だ。
彼は数ヶ月に一度、『邂逅(かいこう)』と名した集まりを企画していて僕も参加している。要は酒と食いもん持ちよって、友達の友達の友達とかと狭い部屋で色々と話しをするだけ。アメリカでは頻繁に見られるハウスパーティのようなものだけれど、日本でのんびり住み暮らし学生をしているとこんな機会はさほど多くない。毎回楽しみにしているしゃべりの場。出会いの場。
そんな彼から借りている一冊の本『ザーヒル』パウロ・コエーリョの中に、こんなセリフがある。
人間同士の関係において一番大切なのはおしゃべりをすること。なのに、人はもうおしゃべりをしなくなっている―すわって話をしたり、人の話を聞いたりするのを。みんな劇場や映画館に行ったり、テレビを見たり、ラジオを聞いたり、本を読んだりするばかりで、ほとんど話をしない。
(『ザーヒル 』p188)この一節に、ギクッとなった。僕は、人間同士の関係で一番大切なおしゃべりをしなくなっているんじゃないかって。
テレビやラジオなんかよりも、もっと僕らのしゃべりを奪っているものがある。ネットだ。もちろんネットのおかげでたくさんの人に発信をすることができるようになったり、旅先で救われたこともたくさんある。どこかに出かければ、写真をアップロードする。ブログも書く。Likeの数にウキウキするし、コメントは待ち遠しい。それでも、こうやってあることを一般公開して、僕は誰かに情報は共有しているけれど、そのことについて誰かと話をしていないんじゃないかって。気になる人が何をしているかは知っているけれど、話してよって言わないし耳を傾けていないんじゃないかって。
久々にあった友達の近況がどうなっているのか、ネットを介して僕らはかいつまんで知ることが出来る。でも、僕は、改めて、会ったときにたくさんの思い出話や、嬉しかった話、悔しかった話、悲しかった話、これからどこに行きたいか、これから何をしたいか、いま何に興味があるのか、なにがつまらないのか…そんな他愛もないけれど、聞かせたくて仕方がない気持ちをため込んで、いざ、会ったときに、これでもかというぐらい、話をしたいと思う。
そんなことを思いたって、日曜日、おばあちゃんに会いに行った。僕はメキシコ旅や留学の話をして、おばあちゃんは昔話をしてくれた。のんびりと、たくさんの話ができた。大切な人とそうやって話すことは、その人の存在を大事に大切にすることのように思える。ブログやfacebookで何やってたか知ってたよっていうのは、なんだろう、嬉しいと同時になんだか物悲しい。
本ばっかり読んで、共有することばっかりして(今もこうやってしているわけだけれど)、誰か大切な人と話すことを疎かにしてないかな。
のんびりと話したい、秋晴れの下で。寒空の中で。