たった2分間の皆既日食。
その瞬間のために全米から、世界中から、人々が集まっていた。
360度全方向に広がる夕焼けのような景色。
月に隠れてもなお世界を明るく照らす太陽。
コロナがもたらす不思議な質感の光。
夕凪のような静けさ。
影のない世界…。
それらすべてが、2分間と、その前後数分間に凝縮していた。
ただただ美しく、神秘的だった…。
「死ぬ前最後となるかもしれない皆既日食を見たい。」父親がそんなことを言ったのは確か半年以上前のことで、そのときは何を言っとるんだと思った。
病気にかかったわけでもなく、まだばあちゃんだって健在である。
なのに、どうしたのだろうかとよくよく話を聞いてみると、アメリカ大陸を横断する既日食が8月に起こるという。
実は皆既日食という現象自体は毎年どこかで発生している。
しかし、その多くが海上であったり、僻地であったりして、僅か数キロの幅でしかない皆既日食帯にて完全な日食を見ることは容易ではない。
今回はアメリカ大陸を横断する好条件、つまり天気が悪ければ大陸の東西に移動でき、かなりの確率で見ることが可能となる。
そんな条件での皆既日食がアメリカで発生したのは30年前のこと。次はまた数十年後。
そんな理由から、56歳の父親にとっての「最後かもしれない皆既日食」となったらしい。
誘われたのはいいけれど、行くかどうか、ちょっと考えた。
正直、僕はそんなに天体観測に興味はない。
また、僕にとっては最後でもなんでもない。調べてみると15年後にも日本・仙台あたりで皆既日食があるらしい。
28歳の僕にはまだ皆既日食を見る機会はおそらくある。
でも、行きますか!と、承諾した。
お金も、休みも、やりくりすればなんとかなる。
しかし、この先きっとやりくりすることができないのは、「家族との機会」だ。
⇒「家族との時間は、僕たちが考えているよりもずっと短い。」
5年前に書いたブログであるけれど、社会人となり地方で働き暮らしてからその「短さ」を強く感じる。
家族が元気なうちに、なるべく親孝行しておこう。
そう思っての親子旅、旅行でもあった。
旅行は山の日の3連休も使って合計13日の旅程となった。
父親が行きたいというイエローストーン国立公園、自分が行きたいというグランド・ティトン国立公園を巡り、旅の最後に日食を見るロードトリップ。
国立公園の大自然も本当に素晴らしく、父親と動物や風景を追い求めひたすら車を走らせ、トレッキングを歩き回るとても良い思い出となった。
そして8月20日、皆既日食の前日、ポートランドまで戻ってくる。
その段階でもまだ、僕の中では皆既日食は親父の付き添い程度の考えでしかなかった。
撮影のための器材を準備し、日食のスケジュールを綿密に立ててきた父親とは温度差があった。
「どこでも、父さんの好きなところで見ていいよ、車の運転は手伝うから。」長旅の疲れもでており、そんな程度の感心しか抱いていなかった。
8月21日早朝4時。
それよりさらに30分早起きしてネットで天気を調べていた父親の判断により、天気が良さそうなオレゴン内陸の土地、車で2時間ほどのマドラスへ向かうことにした。
早朝なのに、マドラスへ向かう車道には既に多くの車が走っており、100%の皆既日食が見れる土地に近づくに連れて、大規模駐車場に多くの乗用車・トレーラー、そしてキャンプをしている人々の姿が現れてくる。
脇道に入り、ピックアップトラックの後ろに車を停め、そこで見ることにした。
到着時刻は早朝6時頃。
僕らが観察場所に選んだ土地における日食のスケジュールは、次の通り。
日食の開始時間は9時7分で、そこから次第に月と太陽が重なりはじめる。
10時40分に皆既日食。
2分間、太陽と月が完全に重なり合う。
その後、皆既日食は解け、今度は次第に太陽が月の影から姿を表していく。
11時40分、日食が終わる。
日食開始まで3時間近くあるため、車の中で仮眠をしていたら、次第に外が騒がしくなってきて、カメラのセットアップをしていた父親の会話声も聞こえはじめた。
自分たちの車の前後に停車したインド系アメリカ人達、テキサスから来た白人のおばあちゃん、イタリア人の夫婦が自然と集まり、色々話しをしながら一緒に見ることになった。
「このカメラすごいね、どれくらい見れるの?」次第にお祭りムードとなり、無関心気味だった僕のテンションも上がってくる。
「雲が出てきたね、少し心配」
「日食って実は、世界中で毎年どこかで発生しているけど、その多くが海の上なんだ」
「お菓子いっぱいあるけど、食べる?インドのお菓子もあるよ」
9時7分、月の影がゆっくりと、ゆっくりと、太陽を蝕んでいく。
観察用のグラスをみんな着けて、「見える!見える!」と互いに話す。
それからの1時間ぐらいは、空の明るさも雰囲気もあまりかわらない。
太陽は、その一部が欠けたぐらいでは全くもってその影響を大地に落とすことはない。
月が太陽の80%ぐらいを侵食すると、しだいに空が暗くなるように感じられた。
肌寒くなってくる。
明らかに太陽光が弱まっている。
風が、どこからともなく吹き始める。日食直下の大気温が下がり、周囲から空気が流れ込んできているのだ。
鳥が、夕暮れだと勘違いしたのか、俄に鳴き騒ぎ始める。
なにか、すごいことが起きそうだという予感があたりをつつむ。
「500年前だったら、きっと多くの人が異常現象に驚いて、神を恐れたりしたんだろうね」インド系の男性がその光景を眺めながらポツリと言った。
その通りだろう。あきらかに日常とは違う空間が当たりを包んでいく。
そして、たった2分間の皆既日食がはじまった。
そこで起こったできことは、このブログの最初に書いたとおり。
予想を超える美しさ、神秘的な雰囲気が360度全方向に現れ、静寂と歓声が辺りを包んだ…。
「あーくそっ、2分前のあの空間に戻りたいぜ!」一緒に皆既日食を見ていた1人が言った。
「あの日食、本当にすごかった!私、泣いちゃったわ」帰り際、ひどい渋滞待ちをしているときに、モンタナから来たアメリカ人の女性が感想を伝えてくれた。
一緒に日食を見たメンバーみんなで感想を言い合い、互いに連絡先を交換し、写真をとりあい、壮大な天体ショー見学は終わった。
ゆっくりと、ゆっくりと、時を経て世界が変わっていく様、そこから表れる重厚な美しさに僕はどうやら心惹かれるようだ。
現代は、CGやアニメやVRなどで、現実そっくりな風景、さらには現実を超えた現象を作り出すことができる。
それらは確かに美しいが、どうしてもインスタントな美しさ、パット見て綺麗だと思わせることに特化しているように思えてならない。
今回僕が見ることができた皆既日食を、CGやVRで多くの人に感動させるようにつくることは、僕はできないと思う。
なぜなら、あの場に立ち、刻々と変わる明るさや雰囲気を全身で感じ、そして訪れるとてつもなく大きなものに圧倒される感覚は、有限な大自然の前でしか訪れないと強く感じるから。
皆既日食だけではなく、身の回りの自然が作り出す深みのある美しさにも、常に気がつけるようにいたい。
世界は、美しいものにありふれている。
空も、花も、森も、動物も。
それらの美しさにもっと気がつけるように、そしてそれを全身で受け止められるように、生きていきたい。そう思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿