3/24/2016

「倫理と科学」

卒業した大学のOB/OGに届くメールに、心に残る随想が寄稿されていた。
本文中に出てくる小貫天先生は、僕の指導教授の恩師でもある。
「倫理と技術」について同様の言葉を先生から飲み会の席で伺ったことがある。

科学技術の進歩を、人を殺める道具の進化を例にして考えてみる。
投石から始まり、弓矢、刀、鉄砲、爆弾、核兵器、化学兵器…より残虐性を増し、より多くの人を殺傷する能力を高めるようになっていく。
これらは科学技術の進歩によるものであり、ほぼ不可逆的なものである。
だれも弓矢や刀という古い技術を、運動エネルギーを用いようとはしない。

しかし、それを扱う人間はどうだろう。
弓矢を用いて争っていた人々と比べて、現代に生きる僕たちは進化しているのだろうか。
一瞬の感情の昂ぶりを抑えるだけの道徳心を、僕たちは涵養してきているのだろうか。
他者を思いやる気持ちを、僕たちは広く共有できているのだろうか。
下のエッセーにあるとおり、僕ら人間の倫理・道徳は科学技術とは異なり蓄積されない。

「あいつムカつくな、やっつけてやろうぜ」
そんな気持ちから振り下ろした腕によって、石が投げられる時代から、ミサイルが飛び交う時代を僕らは暮らしているのだ。

僕らが優先的に行わなければならないのは、テストで良い点数を叩き出す公式を覚えることや大金を稼ぐノウハウを蓄積することではなく、道徳心を磨くことなのではないだろうか。
無慈悲なテロのニュースを見るたびにそんなことを、ふと考える。


以下に、全文を引用させて頂きます。
矢幡明樹様(1964年電気工学科卒)
「倫理と技術」 
 もう随分昔の話になるが、私は大学院時代の恩師(小貫天先生)の最終講義に行って、非常に感銘を受けた話を聴くことができた。その恩師も、「実はこの話は大学時代に高木純一先生から聴いた」と言われていた。私も大学の教壇に立っていたときに学生にしばしばこの話をした。この話の主旨は次のようなものである。 
 「技術は蓄積であり、ある人が発明・発見・開発した技術を基礎として次の人が成果を積み重ねるので、どんどん進歩していく。しかし、倫理とか道徳というものは個人に属すものであって、その人が亡くなれば、その人の倫理観とか道徳観は無くなってしまい、積み重ねができない」 私なりの理解も含めて、もう少し話を展開して見る。 
 人間の行動原理は「本能」、「感情」、「利害」がベースとなり、それに「倫理・道徳」と「社会的制度・慣習」が影響を及ぼしている、と言ってよいのではなかろうか。「倫理・道徳」は「利害」とは無関係に、人を自由意志による社会的行動に導く。「社会的制度・慣習」には、刑罰・報償などの実際的な損得で行動を規制・誘導する「法律」等と、天国・地獄やご利益(りやく)・罰(ばち)などの抽象的な損得で行動を規制・誘導する「宗教」が考えられるが、行動に影響を与える要素としては「利害」の下位の要素としてもよい。 
 さて、「倫理・道徳」は社会において蓄積されて進歩していくものであろうか。教育などによって作られる社会全体の道徳的規範というものはあろう。その規範は時代や民族・文化によって異なったものになるが、現代人が昔の人より道徳的に優れているとは決して言えない。法律を厳しくして、反道徳行為を少なくなったとしても道徳観が進歩した訳ではない。親の生活態度が子供に影響を与えることはあるが、親が道徳的に優れていても子供がそうなるとは限らない。人は育つ環境や教育などの社会の影響を受けて、「倫理観・道徳観」を生まれたときから自分の中に育てていく。 
 一方、技術は過去の成果を基礎として進歩していく。技術の進歩は一方向性で、退歩することはない。公害の原因となるような好ましくない技術もあるが、そういう技術は使われなくなるか、それを克服する新しい技術が出てくるだけで、技術が退歩する訳ではない。 
 問題は、限りなく進歩を続ける「技術」を扱う人間の「倫理・道徳」の進歩は本質的に期待できないことである。つまり、一人の不心得者の「技術」の悪意の使用により、世界が破滅や破綻するような可能性がどんどん増えていくことであり、それを止める手立ては残念ながら見あたらない。理工系人間は社会に対して大きな責任を負っているのである。 
以 上

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