東日本大震災から5年。
職場では弔意を表す半旗が掲げられ、2時46分には1分間の黙祷が捧げられた。
5年間、長かったような、短かったような。
1分間、長かったような、短かったような。
時間は流れていく。
職場で、同期と、地震があったとき何をしていた?と雑談をした。
大学にいた人、部屋にいた人、旅行をしていた人…。
みんなそれぞれの3.11を体験し、それをしっかりと心に刻んでいるようだった。
「東日本大震災が発生した時、俺は留学先で友達と一緒に飲み歩いていたんだよね」
5年前の、ある1日の記憶。
一昨日の夕食ですら言えないのに、覚えていないのに、僕らはきっと3.11の記憶を生涯にわたり語り続けるだろう。
恋人に、友人に、子供に、同僚に、孫に。
5年が経ち、僕の記憶も風化をはじめている。
10年後、僕は子供に当時の記憶をしっかりと伝えられるだろうか。
20年後、僕は部下に記憶を語れるだろうか。
30年後、40年後、僕は子供が好きになった人にうるさい親父として喋れるだろうか。
50年後、60年後、僕は孫に何かを伝えられるだろうか。
僕の3.11を思い出せるうちに書いて残しておこうと思った。
5年前の2011年3月、僕は2010年8月から始まった交換留学でアメリカ・サンフランシスコにいた。
日本時間の3月11日金曜日2時46分は、米西海岸の現地時間では3月10日木曜日21時46分。毎週木曜日の夜、世界各国から集まった留学生は"Thirsty(Thursday) Night"と題してサンフランシスコの街中のバーを飲み歩くイベントを開催していた。
その実行委員の一人であった僕は、夜の22時頃にそのバーに向かっていた。ヨーロッパ系が多い留学生団体の飲み会は、毎回スタートが21時前後、参加者はバラバラの時間にバーに集まり、思い思いのままに飲み語るという緩い集まりだった。
その日のThirsty Nightは、CIRCAというマリーナディストリクトにあるおしゃれなレストラン&バーで企画されていた。留学生グループのFacebookページ(まだ、残っていた。懐かしい。)で、企画者のDanaeが次のようなポストをしていた。
アメリカのバーは年齢確認が厳しい。
合法的にお酒が飲める21歳以上であることをパスポートや免許証で見せなければバーへの入場すら断られる。しかし、CIRCAはレストランでもあるので、当日は18歳以上であれば入場できるはずだとDanaeは話していた。
18歳以上ならば普段は行けないメンバーも参加できる!と、僕はアジア系の留学生に参加を呼びかけた。そして、僕自身は留学仲間で親友の恭平と、彼のアメリカ人の彼女を誘った。
二人とも18歳以上21歳未満であり、バーへ潜り込むのに毎回苦労していた。
「今日は一緒にバーで過ごせる!楽しもう!」
僕ら3人はDivisadero St.にある恭平の家に集まり、軽く飲んで、21時過ぎに夜遊びに向かった。
バスの22番に乗り北へ向かい、確か降りるバス停を間違えて、Fillmore St.の急な坂を歩いている時に、友達の彼女がiPhoneを見ながらこういった。
「竜之介、恭平、日本で地震があったみたいだよ」
僕も恭平も、インターネットが使えるようなスマートフォンは持っていなかった。
「日本では地震はよくあるんだよ、気にしなくていい。それよりも飲み会に遅れすぎた、急ごう」
CIRCAに到着したのは22時頃だったと思う。
店の前ではアジア系の留学生が集まっており、なにやらもめていた。
「18歳以上でも入れるって言われて来たのに、キックアウトされた!入れてもらえない!」
CIRCAからはダンスミュージックが漏れ聞こえ、中はクラブのような雰囲気になっていることがわかった。入り口に立つIDチェックをする人にパスポートを見せ、僕は中へ入ってDanaeを探した。彼女は留学生達とフロアで踊っていた。
「ごめんなさい、このお店も夜は21歳以上だったみたい」
酔っ払った彼女はそう言い捨て、踊りに戻った。僕は外へ出て、アジア系の留学生たちと一緒に来た友人にその旨を伝えた。アジア系の留学生は呆れて帰り、僕も、恭平と彼女をその場に残すわけにもいかず、ぶらぶらとマリーナディストリクトの夜の散歩をして帰ることにした。
おしゃれなカップケーキ屋、高級な紳士服や、閉店しているカフェを通り過ぎ夜風に吹かれていた。坂を登り帰りのバスを捕まえようとしていたら、再び恭平の彼女が行った。
「さっきの地震だけど、相当大きかったみたいだよ」
胸が、ドキッと鳴った。
大きいってどれくらいだ、アメリカ人の彼女に地震の大きさの判断がつくのか、とにかく急いで家に帰ってインターネットで調べよう。僕はちょうど来たバスに乗り、家へ向かうことにした。
焦る気持ちを抱いてバスに揺られていたら、テキストメールが携帯に来た。
カメラ好き同士で仲良くなった、フィリピン系アメリカ人のJonからだった。
「竜之介!お前の家族は大丈夫か?東京が津波に襲われたみたいだぞ! 」
身体から血の気が引いていく感覚だった。東京が津波に襲われた?家族?いったいどうなっているのかわからず混乱した。
関東に実家がある留学友達のチャコに電話した。ニュースとか見てる、日本で地震があったって聞いたんだけど、と伝えたら、電話からは鳴き声とどなり声が飛んできた。
「今更何言ってるんだよ!!日本が大変なことになってるよ!!東北で大地震があって、家族に連絡がとれないんだけどどうしよう…」
いつも明るく元気な彼女が、ボロボロに泣いていた。
僕もいよいよ気が気じゃなくなった。知りうる限りの日本人の友だちに電話をし、情報交換をしながら、家に駆け戻った。
部屋に着くやいなや、インターネットで日本のニュースを調べた。
東北地方で震度7という情報、大津波や火の海の映像が次々に入ってくる。
調べる手が震える。
目から涙が溢れてくる。
国際電話で実家に電話をかけたが、つながらない。しかし、Skypeで母さんを呼び出したらすぐに出てきた。東京もすごく揺れたけど、被害は東北のようにひどくはない。母さんと弟は無事、東京で働いている父さんとは携帯では連絡がとれないけれどきっと大丈夫であると聞いた。ひとまず、安心した。
Jonが伝えてくれた「東京で津波」は、どこかの海外ニュースが間違えて伝えた速報だった。
この時点で、サンフランシスコの時刻は深夜を回っていたと思う。
それから、朝まで、ひたすらパソコンの前でニュースを見続けた。ニュースから目が話せなかった。
津波、原発、被害状況、安否情報。
NHKやTBSが、ウェブサイト上でニュース番組を特別に放映していたために、アメリカにいながら日本の情報は逐一入ってきた。
弟からSkypeで連絡があり、父さんが無事だったこと、勤務場所から歩いて4時間ほどかけて家までたどり着いたことを教えてくれた。
アメリカのテレビニュースでも日本で起きた地震と津波と原発の映像が何度も流された。
外が明るくなってきたときに、家族が安全だった安心感からか、泣きつかれたからか、僕はパソコンの前で寝落ちた。
長い長い夜、僕の3.11はこのようにして終わった。
それからの日々は、日本で地震を経験した人とは少し違う日々を送ったかもしれない。
日本では大変なことが起きているけれど、何事も無く過ぎていく留学先の日々。
アメリカ人、留学生の友達からは「家族や友達は大丈夫だった?」と聞かれる日々。
津波の被害と原発の状況の情報「だけ」が暴力的なぐらいに眼と耳に入ってくる日々。
何かしなければと焦りながらも、遠いアメリカにいて何もできずにいる自分にもどかしく感じる日々。
日本人留学生団体が、キャンパスで募金活動を始めた。
僕ら交換留学生もそれとは別に、チャコとユキが中心となり日本食レストランでの募金活動を始めた。
授業には通常に出席した。留学生団体の仕事も努めた。
Candlelight Vigil、チャリティイベントにも参加した。
それでも、心が一つに定まらず、虚無感と意味のない焦りが僕を遅い、味のしない砂を噛みしめているような日々が続いた。
その時の気持ちを、拙い言葉で残していた。
(→2011年3月20日、
All Over Coffee: 遠く離れたアメリカから出来ること。)
それからは、徐々に、普段の生活へと戻っていった。
節電のために真っ暗になった東京の夜や、企業が広告を自粛したために流れ続けたACのテレビCM、地震速報の音が携帯から鳴り響いた日々や、コンビニから品物がなくなったことは、後から家族や友達から聞かされて知った。
留学を終え、バックパック旅を終え、東京に帰ってきたのは震災から6ヶ月後の2011年10月。東京の街はほとんど元の姿を取り戻していた。
以上が、僕の3.11と、その後の日々。
特別なドラマが有ったわけでもない、普通の一般人である僕が経験した震災の日とその後の日々の出来事。
5年が経過した。
震災の風化が、メディアで盛んに叫ばれている。
5年前、僕はブログにこんなことを書いていた。(→
All Over Coffee:Consulate-Genaral of Japan)
復興活動の最大の敵は、風評被害でも憎しみでもなく、無関心だ。
これからも続く復興活動に参加することはできなくても、常に情報を追い続け、現在の復興ステージを知り、関心を持ち続け、忘れる事のないようにしていきたい。
風化をすこしでも食い止めるための、備忘録としたい。