こちらにきてから、駐在員の先輩方にとてもお世話になっている。
異国での数ヶ月の滞在は、旅行者になるには少し長くて、しかし深く根を張り生きるには短い。
物理的にも精神的にも、今までのつながりを断ち切られた雰囲気が漂い(もともとつながりが多い方ではないのだけれど)、何となく寂しく心許ない。
そんなときに、特にローカルの人々が活気付く週末やオーストラリア・デーなどの祝日に、「◯◯やるから一緒にやろう」と声をかけてくれる先輩の声にホッとする。
そんな先輩の一人から頂いた1冊の本を、珍しく悪天候な休日に読んだ。
あらすじを、引用。
「理解はできないが、受け容れる」それがウェスト夫人の生き方だった。「私」が学生時代を過ごした英国の下宿には、女主人ウェスト夫人と、さまざまな人種や考え方の住人たちが暮らしていた。ウェスト夫人の強靱な博愛精神と、時代に左右されない生き方に触れて、「私」は日常を深く生き抜くということを、さらに自分に問い続ける――物語の生れる場所からの、著者初めてのエッセイ。
「西の魔女が死んだ」などが有名な梨木香歩さんがイギリスに滞在していた下宿先には、寛容なウエスト夫人を慕って(或いは善意につけこんで)、様々な人々が滞在する。
宗教、人種、地位、文化的社会的背景やステータス。。。そんな人々に対するウェスト夫人の生き様は、この記事のタイトルに使った「理解はできないが、受け入れる」というもの。
物語のひとつ「トロントのリス」の中に、アスペルガー症候群のジョンとの話があり、心に残った。
アスペルガー症候群/自閉症に関して、客観的な説明を述べ、ジョンと著者との会話を中心に話が進む。
ジョンは化学者であり、理論的合理的な学問の中に自らの居場所を見つけている。一方で彼は、普段の生活の様々な抽象的なこと、曖昧な表現、ルールが決まっていないものとの折り合いをつけることを苦手としている。
―昨日、ある集まりがあって、司会者に、じゃあ、ちょっと前に出てみてください、といわれたんでどんどん前に行って、その人の顔のすぐ目の前まで行ったんだ。そしたらみんな笑うんだよ。ジョークだと思ってるんだ。ところが僕ときたらなぜ笑われているのかわからないんだ。その人が驚いた顔をして、ハローというので、何か不都合なことをしたんだ、って分かったんだ。
―そうか、どこまで前へ出てください、って相手は言ってないんだものね。どこからどこまでが、彼の考える妥当な「前」なのか、範囲を指定してなかったのだものね。普通は「彼」の前でなく、ぎりぎり「聴衆全体」の前ぐらいでいいのかもしれない。でも相手の目の真ん前だって、前には違いないんだもの。言ってないことを察するのは難しいね。ジョンの、察することが難しいという、世間一般的に「アスペルガー症候群」「自閉症」と呼ばれていると特性。
この特性に対して、著者は言う、誰でもみなこのような自閉的な特質を持ち合わせている、オールorナッシングではなく、単なる大小の問題なのではないか、と。
ここからは自閉症、ここまではそうでないという線は、だから、実はどこにも引けないのだ。先に述べたようにその傾向は大なり小なりあらゆる人々のうちに偏在する。ボーダーというよりグラデーションで考えよう。
「ボーダーというよりグラデーションで考えよう」という考え方が本当に好きだった。
根本的に他者は理解できないということを前提に置き、それでは私とあなたの「間」にはなにがあるのか、どのような架け橋をかけることがが美しいのか、点と点を結ぶその「空間」に対する鋭く深い考察である。
そしてこの他者とのつながり方を考えるということが、今の僕たちにとって、とても大切なことなのではないかと読みながら考えた。
一つ前のブログで書いた同調する意見を持つ人だけで固まりがちなSNSがはびこる時代に、異国の人と接する機会が多い時代に、そして、「理解できないものは、排除する」「ボーダーをつくる」というナショナリズムが声高に聞こえてくる時代にとって。
「トロントのリス」というエッセイの最後、ジョンとの会話は、このような言葉で締めくくられる。
―人と人とが本当に理解し合うなんてことはないんじゃないかな、まあ、それでも一緒にコーヒーは飲めるわけだし。
この心持を大切にしていきたい。
コーヒーでも、ビールでも、お茶でも 、チャイでも、なんでもいい。
コーヒーでも、ビールでも、お茶でも 、チャイでも、なんでもいい。
親しい人、見知らぬ人、理解できない人とでもいい。
同じテーブルにつく。
一緒に語らいあう。
小さな小さな会話を重ねあう。
「あ、こいつとは分かり合えんな」と思ったとしても、その事実を受け入れる。
分かり合えない人とコーヒーを飲めたことに、価値がある。
一緒に語らいあう。
小さな小さな会話を重ねあう。
「あ、こいつとは分かり合えんな」と思ったとしても、その事実を受け入れる。
分かり合えない人とコーヒーを飲めたことに、価値がある。
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