部署の人数、プロジェクトの数、構成...そんな話を聞くたびに、今まで漠然と全体像しかイメージできなかった「企業」が因数分解され、要素が抽出されていく。途方もなく大きな金額を動かす会社という法人格も、つまりは「個人」の集合体であるという当たり前を知る。
その過程で得られる感覚は、「すごい!!」と「なーんだ」の中間。外部からは見知ることができないヴェールが剥がされ、自身が担うのはその中の一部であることを知った時の気持ち、高揚感と虚無感が入り混じるものを感じるのは、僕だけではないはず。
昨日は、「学習」についての講義があった。
新人社員としてどのような意識で学び、業務に接していけばよいかを軽く、楽しく、しかし深く教わった。
新人社員に期待される「学習」には、「獲得」と「参加」がある。
「獲得」は先人の知恵(文字情報)、周囲の人々(伝聞情報)、自分の経験(体験)から何かを得て自分の糧としていくこと。
興味深かったのは、「参加」について。日本では同調圧力が強く、同調=学習のサインとみなされることが多い。「下山は学んだな」と自身の学習を周囲が認めるシーンは、僕が自身の意見を法人格としての大所高所から論じるのではなく、個人の集合体の中に同化させたとき。つまり、「会社に染まる」ことが「学習」とみなされるということ。
どんなに意欲的に知識を獲得したとしても、成果を残そうと主張をしていても、「参加」なくしては学習を認められないのだ、日本においては。
とても日本的だなーと思いながらも、この感覚が僕は嫌いではない。
日本伝統の「道」の精神、守破離の精神にもとづく成長の過程であると考えれば、社会人になるということを一種の精神修行のように捉えることもできる。
「守」:指導者の教えを忠実に守り、聞き、模倣する段階
「破」:指導者の教えを守るだけでなく、自分の考えや工夫を模索し試みる段階
「離」:指導者から離れ自分自身の形を作る段階
社会人人生は、長いのだ。
今後40年ほどは続くキャリアの第一歩を踏み出したばかり。
まずは守ること、参加すること、染まることから始めたい。
日本伝統の「道」の精神、守破離の精神にもとづく成長の過程であると考えれば、社会人になるということを一種の精神修行のように捉えることもできる。
「守」:指導者の教えを忠実に守り、聞き、模倣する段階
「破」:指導者の教えを守るだけでなく、自分の考えや工夫を模索し試みる段階
「離」:指導者から離れ自分自身の形を作る段階
社会人人生は、長いのだ。
今後40年ほどは続くキャリアの第一歩を踏み出したばかり。
まずは守ること、参加すること、染まることから始めたい。
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