5/21/2014

「英語ができない」ということについて

僕が昨年参加した留学プログラムに、今年参加する後輩を囲んでの壮行会があった。
3ヶ月弱という短い期間であるけれど、異国の地で学び生活するという機会はとても貴重で充実したものになる。
僕達昨年度参加メンバーはアドバイス!なんてカッコつけながら、思い出話や自慢話をだらだらと話し続けてしまった。

その壮行会で、後輩からこのような質問があった。
「英語が不安なのですが、どうすればいいでしょうか」
初めての留学のときには僕にも同じ不安や悩みがあった。
そして、留学当初は「英語ができない…わからない…」と1人で枕を濡らした夜もあった。(本当に)
でも、その後に、「英語ができない」ということが単純に自分自身の英会話能力が欠けているだけではない問題を含んでいることに気がついた。
「英語ができない」のではなく、「英語で伝えるべきこと/問われていることがわからない」のだと。


日本の外に踏み出してみると、日本ではあまり意識しないようなアイデンティティを僕らは身にまとうことになる。「日本人」「アジア人」「キリスト教/イスラム教以外の宗教を信じる人」「米を主食として食べる人」などなど…
海外の人たちが僕達に興味を持つ内容というものは普段僕らが意識しないようなそんな当たり前であり、初対面の人からはそのようなトピックを問われることが多い。

「日本ではどんな宗教があるの?聖典は?」
「日本人はどうして第二次世界大戦の過ちを認めないんだ?どうして安倍(首相)が靖国参拝することを止めないんだ?」
「僕は寿司が大好きだけど、どれくらいの頻度で日本人は食べるの?いつの時代からある食べ物なの?」

日本でのんびり暮らしているぶんには知らなくても十分に楽しく生きていける雑学や常識。それらをしっかりと説明することが求められる。日本人なんだから、それぐらいのこと知ってるでしょ?そんなふうに言われている気がしてしまう。
もちろん、あとから調べて正しい答えを伝えればいいだけの話。でも、このような話がとっさにできないこと=伝えるべきことがわからないということが、慣れない英語が口から出てこないということと相まって、「英語ができない」という思いをいっそう強くさせるのだと思う。少なくとも僕は、初めての留学のときには自らのアイデンティティに関する知識不足も、学力的についていけない授業の進行も、すべて「英語ができない」という魔法の言い訳に包んで逃げていたように思う。


英語はツール、伝えたいコンテンツをしっかり持っていれば気持ちは伝えられる。
ビジネスの場なんかではそんな根性論は通じないのかもしれない。会議では洗練された表現で語り合い、法務では文言の一つ一つを吟味する必要がある。
けれど、日常会話程度の英会話しか使わない今の僕にとっては、英語はそんなもんだと思っている。だから、文法とかリスニング力とかを鍛えるのと同時に、英語で誰かに伝えたいと思うコンテンツを勉強することもとっても大切だと思うのだ。

僕が大切だと思うこと、しっかりと伝えたいと思うこと、それは生まれ育った日本のこと。
僕が生まれてからのことだけではなくて、生まれる前のことも含めて。悠久の歴史の中で培われてきた文化とか、美学とか、思想とか。
英語でなくてもいいから、少しずつ、そんな「伝えたいこと」を習得していきたいと思っている。英語はあとからついてくる。






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