5/29/2014

Annecy, France (photos)

3年ぶり、2度目のヨーロッパでフランス・アヌシー(Annecy)に来ました。

壊れかけのカメラに鞭打って、久々に写真を撮る、撮る。
アルプスの麓、緑から青へと色が変わる湖のほとりの街。
水路、旧市街、マルシェ、カフェ。
ワイン、オリーブ、チーズ、ペリエ。

小さいけれど、素敵な街でした。























5/21/2014

「英語ができない」ということについて

僕が昨年参加した留学プログラムに、今年参加する後輩を囲んでの壮行会があった。
3ヶ月弱という短い期間であるけれど、異国の地で学び生活するという機会はとても貴重で充実したものになる。
僕達昨年度参加メンバーはアドバイス!なんてカッコつけながら、思い出話や自慢話をだらだらと話し続けてしまった。

その壮行会で、後輩からこのような質問があった。
「英語が不安なのですが、どうすればいいでしょうか」
初めての留学のときには僕にも同じ不安や悩みがあった。
そして、留学当初は「英語ができない…わからない…」と1人で枕を濡らした夜もあった。(本当に)
でも、その後に、「英語ができない」ということが単純に自分自身の英会話能力が欠けているだけではない問題を含んでいることに気がついた。
「英語ができない」のではなく、「英語で伝えるべきこと/問われていることがわからない」のだと。


日本の外に踏み出してみると、日本ではあまり意識しないようなアイデンティティを僕らは身にまとうことになる。「日本人」「アジア人」「キリスト教/イスラム教以外の宗教を信じる人」「米を主食として食べる人」などなど…
海外の人たちが僕達に興味を持つ内容というものは普段僕らが意識しないようなそんな当たり前であり、初対面の人からはそのようなトピックを問われることが多い。

「日本ではどんな宗教があるの?聖典は?」
「日本人はどうして第二次世界大戦の過ちを認めないんだ?どうして安倍(首相)が靖国参拝することを止めないんだ?」
「僕は寿司が大好きだけど、どれくらいの頻度で日本人は食べるの?いつの時代からある食べ物なの?」

日本でのんびり暮らしているぶんには知らなくても十分に楽しく生きていける雑学や常識。それらをしっかりと説明することが求められる。日本人なんだから、それぐらいのこと知ってるでしょ?そんなふうに言われている気がしてしまう。
もちろん、あとから調べて正しい答えを伝えればいいだけの話。でも、このような話がとっさにできないこと=伝えるべきことがわからないということが、慣れない英語が口から出てこないということと相まって、「英語ができない」という思いをいっそう強くさせるのだと思う。少なくとも僕は、初めての留学のときには自らのアイデンティティに関する知識不足も、学力的についていけない授業の進行も、すべて「英語ができない」という魔法の言い訳に包んで逃げていたように思う。


英語はツール、伝えたいコンテンツをしっかり持っていれば気持ちは伝えられる。
ビジネスの場なんかではそんな根性論は通じないのかもしれない。会議では洗練された表現で語り合い、法務では文言の一つ一つを吟味する必要がある。
けれど、日常会話程度の英会話しか使わない今の僕にとっては、英語はそんなもんだと思っている。だから、文法とかリスニング力とかを鍛えるのと同時に、英語で誰かに伝えたいと思うコンテンツを勉強することもとっても大切だと思うのだ。

僕が大切だと思うこと、しっかりと伝えたいと思うこと、それは生まれ育った日本のこと。
僕が生まれてからのことだけではなくて、生まれる前のことも含めて。悠久の歴史の中で培われてきた文化とか、美学とか、思想とか。
英語でなくてもいいから、少しずつ、そんな「伝えたいこと」を習得していきたいと思っている。英語はあとからついてくる。






5/04/2014

2100年を生きる次の世代のために。

同い年の友人が、子供を産んだ。
留学で同時期にサンフランシスコへ行き、苦楽を共にした友達は、しっかりしているけれど元気で笑顔が眩しくて少女らしい。そんな彼女が身籠って出産したわけだから、身内では「子供が子供を産んだ!!」なんて揶揄したりして。それでも、新たな生命が生まれた。そんな彼女と、旦那さんと、赤ちゃんに会ってきた。




2014年に生まれた赤ちゃん。彼はきっと、僕達が見ることのないであろう時代を生きることになる。2100年、22世紀。きっと平均寿命はこれからどんどん長くなっていき、人生80歳、90歳ぐらいはざらにありうることだろう。新たな世紀の幕開けなんて、11歳のときにミレニアムを経験した僕にはもう訪れまい。


「次の世代」
なんて言葉は、まだまだ僕らが背負って引っ張って生きていかなければならない概念であるけれど、今日、抱かせてもらった新たな生命は、間違いなく僕らの命が果てた先にも生きる「次の世代」となる。人の一生は短い。その短さゆえ、例えば新たな生命を与えることを考えたり、例えば自らの人生の終わりを感じ取ったり、例えば次の世代を見ること無く去っていった人のことを考えたときに、僕たちはきっとちょっと真剣に考える。
「次の世代に、僕たちは何を残せるのだろう」
と。

なぜ、若者が政治に対して無関心であるのかを、少し前に若者の投票率をあげるために活動している友人と真剣に考えたことがある。その中で僕達が出した結論が、「若者はただ得ることしか考えていないから」というものであった。10代、20代、もしかしたら30代までの人生というのはとにかく自分自身の成長、自分自身の夢、自分自身の名誉、自分自身の快楽のために生きる時間である。それは人生80年のために生きる時間であり、それより先のことを考えるべき時間ではない。しかし、先に上げたような「次の世代」を意識し始めると、話が変わってくる。次の世代のことを想う。自分の子供、自分の孫、自分の子孫のためになること。それは人の一生を超えた枠組みで動くことができるシステムであり、企業体系や、政治や、法律だったりする。
政治を本気で考える人、会社のしくみを想う人というのは、ニアリーイコールで「次の世代を想う人」であり、それは「人の命の短さを悟った人」であると僕は思う。

頭の良い人、名誉ある人、お金持ちな人、モテる人、高尚な気持ちを持つ人…
「すごい!!」って評される人は多々いるけれど、極端な話、その人に明日隕石が降ってきて頭に直撃して亡くなってしまったら、残るものは少ない。だから、自らがいなくなったあとにも、「次の世代」のために、2100年を生きる人々のために、人生の長さを超えて残る仕組みづくりに人は励む、その人生の終わりに。100年残る会社を、300年後も豊かな国を、500年後に平和な世界を、と。

まだまだ僕は自己中心的であってそんなたいそうなことを考え実行するに至っていないけれど、やっぱりいつかは2100年を生きる友の子供、自分の子供、さらにその孫の世代に残せる何かを築きあげたい。
そんな高尚な思いの第一歩は、投票をすることだったり、会社でしっかりと働くことだったりするのだと思う。