8/26/2018

平成最後の夏の終わり。

2018年、まだ終わっていないけれど、今年の日本の夏は強烈だった。


豪雨、猛暑、数多の台風襲来…暑い暑いと僕もメディアも騒いでいたら、今度は秋が一足も二足も早くやってきた。この週末、東京も新潟も最高気温は30度を下回り、湿気もぐんと下がり、水蒸気を含まない空の色は青く澄み渡っていた。
今日は一日東京をぶらぶらと散歩しながら街並みや道行く人々を眺めていたけれど、心なしか町も人々も余裕があってやわらかく、優しい。特別なことがあった日ではないけれど、今日はきっと多くの人にとって良い日だったのではないだろうか。


今朝、1つのコラムを読んだ。
平成ラストサマー、消費波打つ(日経MJ)
 書き出しは次の言葉で始まる。
今年の夏はちょっと違う。そう、平成最後の夏――。時代が動くこの瞬間、パートナーを探したり、平成を懐かしむイベントに参加したり、盛り上がらずにはいられない。時代の区切りが人々の心を揺さぶり、高ぶった感情は「エモさ」になってあふれ出す。
有料の記事であるため続きが読めない人もいるかもしれない。記事の続きは平成生まれの若い世代が、「平成ラストサマー」をイベント化、メモリー化、ブランド化し、アルバイトや消費活動へと動くさまを描いている。コラムであるので深い内容ではないが、なんとなく続きを読んでしまう文章だった。
興味をひかれた一番の理由は、僕も当事者だから。平成元年に生まれ、今までの人生のいたるところで平成ブランドを使ってきた。だから平成が終わっても変わらず「平成」を感じながら生きていくだろう。「昭和っぽい」が古めかしいと同義で使わるように、「平成っぽい」がいずれは古さやダサさを形容する言葉になったとしても。


「平成最後の…」という言葉を僕がメディアを通じて頻繁に聞き始めたのは、この夏の、特に終戦関係のニュースからである。大学でジャーナリズムを学んでいるときに、沖縄へのフィールドワークを通じて先の大戦をどのように伝えるか、何を後世に残すべきかという話を当事者・ジャーナリストからたくさん聞いた。その中で、ある新聞記者が言っていた次の言葉が記憶に残っている。
「毎年夏になると、新聞記者は大変なんだ。ジャーナリズムの使命として、終戦はとりあげなければならない。でも、さすがに70回もとりあげているから、切り口がみつからない。どうやって今年の終戦を記事にするか、人々の心に残るようにするか…毎年試行錯誤です。」
今年は平成という一つの時代が終わる節目となり、しかもそんなことは通常は予期できないことである。そのため、各メディアがこぞって言葉の掛け算をしてオリジナリティを演出していた。
「平成最後」×「終戦記念日」
「平成最後」×「夏休み」
「平成最後」×「お彼岸」、とかとか。
何より今はマスメディアではなくひとりひとりが、とりわけ流行の風を敏感に掴み取る若者が、こういった言葉の掛け算やオリジナルな発信を行っていく。
彼らの時代の風を感じ取る能力は絶大だ。
そんなことを先の記事では取り上げていた。


平成最後の秋が来て、冬が来て、そして春が来て、平成は終わる。
時代は年号を変えるだけで継ぎ目なく連なっていくけれど、人々はそこに大きな意味を見出す。大晦日の終末感、新年の新鮮さ、そんな感情と同じようなものをいだきながら。

平成ラストサマー。僕の生まれた年代の最後の夏が終わる。
でも、これは元号だけに限ったことではないけれど、終わりは常になにか別のことの始まりである。
まだ発表されていないから誰もがそれを表現できずに言葉の掛け算遊びができないが、「新たな元号」×「なにか」が半年もすれば世間を騒がせるだろう。

それまではしばらく、「平成最後」を名残惜しみつつメディアと一緒に騒ぎ立てよう。
終わりよければすべて良し、それがいいかどうかはわからないが、「平成っぽい」が少しでも明るいイメージと共に後世に伝わるように。







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