1/24/2017

靴の紐をしめて、エコーチャンバー(共鳴室)から出てみる

今日は少しだけ、心に残った記事と、スピーチと、昔読んだ本について。

海外に行く、旅に出る、あるいは非日常を経験する。
その時に、何を求めるか、何を知ろうとするか。
慣れ親しんだものことを無意識のうちに探して見つけては安堵するのか、或いは初めて見るものに疑問を感じそれを試してみようとするのか。

もっと具体的に話をしてみると、旅の途中のスタバやマックにホッとするのか、名も知らぬ食べ物を売っている屋台やお店に入ってみようとするのか。そんなこと。

歳を重ね、自分の中のスタイルが出来上がってくると、自然と僕らはそこにしがみつこうとする。失敗したくない、時間をロスしたくない、イメージを崩したくない、仲間はずれにされたくない。

そうやって僕らは次第に挑戦をしなくなる。
幼いころに感じていたつまらない大人に近づいていく。
記事の中にあるようなエコーチャンバー、共鳴室で、自分のスタイルが周りから聞こえてくることに安寧するのだろう。

3年前の夏、僕は1人で沖縄にいた。
その時の自分は進路に悩んでいて、軸もいまよりブレブレだったけれど、共鳴室には入っていなかったように思う。『検索ワードを探す旅』を楽しみ、果敢に挑戦をしていた。

オバマ氏がスピーチで伝えるように、靴の紐をしめて政治活動を…ではなくて、もっと気楽に、靴の紐をしめて、新しい経験に挑戦してみよう。居心地の良いエコーチャンバーから抜け出してみよう。改めてそんなことを思った日。

とりあえず明日は、ベジマイトをスーパーで買って食べてみよう。
街を歩き気になった初めて見る旗を写真に撮り、その意味を調べてみよう、周りのOGに聞いてみよう。



2017年1月24日日経新聞朝刊、グローバルアイの記事より引用。

「エコーチャンバー(共鳴室)現象」。昨年の米大統領選以来注目される「偽ニュース」問題では、ソーシャルメディアの特徴をとらえたこの言葉がしばしば登場する。
価値観や考え方が近い人同士がつながりやすいソーシャルメディアでは、共有される情報が偏りやすく、意見が極端になりやすい。それどころか、真実かどうかより、共感できるかどうかが重視される。「ポスト・トゥルース(真実)の時代」とも呼ばれるこの傾向こそが、偽ニュースが拡散する土壌を育んだという指摘だ。 
「もしインターネット上で見知らぬ人と議論するのに疲れたら、外に出て人に話しかけてみるといい」。10日、大統領としての最後の演説でオバマ氏がこう呼びかけたのは、決して偶然ではない。深まる米社会の分断を修復する糸口を自分なりに探す旅に出たザッカーバーグ氏に、親交のあったオバマ氏の助言は重く響いているはずだ。

この記事の中で引用されている、オバマ元大統領のフェアウェルスピーチ。
New York Timesのビデオとスクリプトから言葉を引用。
President Obama’s Farewell Address: Full Video and Text

21:00
For too many of us it’s become safer to retreat into our own bubbles, whether in our neighborhoods, or on college campuses, or places of worship, or especially our social media feeds, surrounded by people who look like us and share the same political outlook and never challenge our assumptions. In the rise of naked partisanship and increasing economic and regional stratification, the splintering of our media into a channel for every taste, all this makes this great sorting seem natural, even inevitable.
And increasingly we become so secure in our bubbles that we start accepting only information, whether it’s true or not, that fits our opinions, instead of basing our opinions on the evidence that is out there.
37:30
Citizen. So, you see, that’s what our democracy demands. It needs you. Not just when there’s an election, not just when you own narrow interest is at stake, but over the full span of a lifetime. If you’re tired of arguing with strangers on the Internet, try talking with one of them in real life.
If something needs fixing, then lace up your shoes and do some organizing.

1/15/2017

たった、3度目の海外

オーストラリア、パースに来ています。
人生3回目の、ちょっとだけ長い海外滞在。
自分自身の海外経験を、ゆっくりとした日曜日の夜に、少し振り返ってみる。


19歳のときに初めてパスポートを取得して、21歳のときに1年間留学。
留学先のサンフランシスコでは、自分が思っていることを全く言語化できなくて、アメリカの友達、世界中から集っていた留学生達との会話に本当に苦労した。
「朝起きたら、英語がペラペラになってたらいいのになぁ…」
そんなことを、僕と同じ立場の友人と話していた。
2ヶ月、3ヶ月と過ごしているうちに、次第に耳が英語に慣れていった。
相手が言っていることを理解できるようになり、英語での受け答えがスムーズに進むようになった。

そんな生活を送っているうちに、ふと考えたことがあった。
英語には慣れてきたけれど、一体僕は英語で何を伝えたいのかな、と。
「そうだね、うんうん、僕もそう思う、わかるよその気持ち」
そんな種類の相槌をバーやパーティで使いまわして、バリエーションを増やして、英語が上手くなった気になっていた。
けれど、本当に大切なことは、そういった上辺のものではない。
感情の揺らぎ、誰かに伝えたい事柄、共感してほしい思い…そんな心の奥底からふつふつと浮かんでは消えていく感情なのだと思った。

ふわふわとしたそんな気持ちをガシッと捕まえて、言語化するためにはじめたこのブログ。
少し恥ずかしくなるような幼稚な内容でも、「伝えたい」と思ったことを書き綴っていて、気がついたら6年。
色々な気持ちを言語化していた。


24歳のときに2度目の海外留学。
3ヶ月間、アメリカの大学で研究生活を送った。
前回の留学の経験から、日本の文化や慣習を客観的に理解して伝えられる素養を持つことを出発前から大切にしていた。
新渡戸稲造の「武士道」、ドナルド・キーンの「果てしなく美しい日本」、ルース・ベネディクトの「菊と刀」などを読むことで、灯台もと暗しな日本人観を知り、ハッとした。
また、あまり言語に捕らわれず、研究でもプライベートでも、自分の思いや考えを持つこと、それをジェスチャーでも歌でもパッションでもいいから、伝えるように心がけた。
1度目とは違い誰かと語り合う時間を多く得られたし、またブログに綴ってきた気持ちが、国籍を問わず共感を得てもらえる事を知った。


そして、27歳、3度目の少し長めの海外。
英語も着実に上達してきて、海外の慣習やそこでの身の振り方も、知識と経験で多く身につけてきた。
けれど、ちょっとだけ、そこに天狗になっている自分がいるかも。
一緒に訪れている同期の友人に対して、海外生活に関して講釈なんかを垂れたりして。

今日、パース市内の図書館を訪れた。
綺麗な館内の最上階で、日本人と思われる僕と同年代の男性を見つけた。
ヘッドホンを付け、オンライン英会話だろうか、PC越しに誰かと話しながら何度も何度も発音練習を繰り返していた。
「どうすれば✕✕✕の発音がもっと上手くなるかな?」
そう問いかける彼の英語力は、僕のものと大差がないように聞こえた。


もっともっと勉強をしよう。
貪欲に学ぶ姿勢を持っていこう。
英語も、日本についても、研修内容も、オーストラリアについても。
今までの経験をどうやって活かすか、ではなくて、いかにして新しいことを学ぶかを最優先にしよう。

4年前に書いたブログが、今になって自分の心に響いてきた。
英語を再び学び直す

「学ぶことを止めたら、そこから老いは始まる。」
昔どこかでそんな言葉を聞いたことがある。真理であると思う。
27歳、経験も、知識も、そこそこに蓄積されてきてしまったこの時期は、もしかしたら老いと若きの分水嶺かもしれない。

学び続ける姿勢を忘れずに。
3度目の海外滞在は、ベテランでもなんでもなく、「たった3度目」。
そんな気持ちに入れ替えて、過ごしたい。