写真を撮ることと絵画を描くことについて。
2つの行為は、美しさに対する並行する行為であると知った。
先日、東京に帰った際に東京都美術館で開催中のモネ展を訪れた。
《印象派》という言葉を世に送り出したモネの《印象、日の出》が展示されており、開催初日にもかかわらず大盛況の様子であった。
《印象派》という絵画の流派について、中学生の頃の美術の授業で学び、ヨーロッパを旅しながら実際に見て回った。また、モネの連作である《睡蓮》や《ルーアン大聖堂》は国内外様々の美術館で巡りあった。
色彩の美しさ、自然光の尊重、描写される空気感などが印象派と言われる画家の作品に通じる部分である。写実的であることを良しとしていた19世紀中頃のサロンで、書きかけのように見えるモネらの作品は「印象的」と批評された。しかし、後の落選展や印象派による展覧会で彼らは徐々に人々からの支持を得ていき、現代にまで残る名声を得ることとなる。
印象派が市中の人々に高く評価されていく過程において、カメラの存在が影響するところは大きいと思う。
第一回の印象派展覧会の開催は1874年。
一方で、カメラが世に出回り始めたのは日本の歴史人物で写真が残されているのが明治時代を生きた人であることからもわかるように、1850年前後から。
「今日を持って絵画は死んだ」という台詞をフランスの画家ポール・ドラーシュはカメラの出現に際して放ったように、ただ写実的で緻密であることに関してカメラは絵画を凌駕した。
画家は、そして人々は、絵画に現実的ではない何かを求め始めた。
それが芸術家の主観的な感覚を表現する「印象派」「フォービズム」を生み評価した。そう考えてもおかしくないだろう。科学の台頭に、こころが抗う。科学・宗教に代表され、現代のデータ社会でも頻繁に出現するそんな対立構造が18世紀中頃の美術界にもあったように思える。
しかし、人間の「美しさ」に対する本質的な欲求に対して、カメラ・写真の出現は絵画に対する破壊的イノベーションとはならず、異なる手法で補完的・相補的に存在し続け現在に至っている。
撮ることと描くことは、美しさに向かう並行した行為であり続けている。
従来の写真はひたすら受動的な創作だった。瞬間を切り取るためにひたすら待ち続け、リアリティーを追い求めることが中心。
しかし、デジタル化と共にレタッチや合成といった作業が容易になり、写真に対しても絵画のように《印象》を与えることが可能となった。表現の幅は大きく広がった。
そして僕のように絵心がない人にとっても、行動と観察と瞬間を切り取る少しの時間があれば、心が捉えた感動を描くことができるようになった。
なんとも嬉しいことである。
昨日のこと。
信濃川を自転車で走っていると、突如一面のススキ畑に巡りあった。
夕日に照らされ、穂は輝き、金風に揺れ、ただただ美しかった。
そのときの《印象》を残したいと思った。大切な人に伝えたいと思った。
カメラを取り出し、印象が写るように設定をする。
露出を下げ、色温度を上げる。シャッタースピードは穂の輝きが写るように。
息を止めて静かにシャッターを切った。
…似たようなブログを、2年前にも書いていた。
この時はターナー展。季節はやはり秋。
秋は人の心を掻き立てるもの、らしい。
『ターナーの記憶色と空気感』
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