3/14/2014

就活と恋愛は似ている

スーツを着て、革靴を履き、電車に乗ってセミナーや試験に出かける。
就職活動をしていると、街中には本当に僕のような就活生が溢れている。そう感じる。どの電車に乗っても必ず1人や2人は就活生がいて、なんとなくストレスというか、過剰に気にかけてしまう。

そんなことを久々にあった友人に話したら、
「私も街に出るけど、就活生なんてそんなに目につかないよ。竜さんが就活生だから、知らず知らずのうちに意識してるんだよ。」
と。

その通り、だと思った。就職活動を始める前までは、スーツを着てる人はみんな「会社員」とか「働いている人」とか、日々の風景の一部としか認識していなかった。しかし、自分自身がスーツを着ることで、その一員になることで、その存在を知ることで、強く意識し見えるようになったのだろう。

海外の旅をしていると、町中ですれ違う日本人旅行客を意識してしまったり。
新しいカメラを買うと、人々が肩からさげるカメラの機種が気になったり。
料理を始めると、レストランで出される食材や調理法が知りたくなったり。

存在を知ることで、或いはその当事者になることで、僕たちは本当にたくさんのものが見えるようになるものなのだ。そんな当たり前のことに気がついて、ちょっと、気持ちが楽になった。



さて、タイトルに書いた「就活と恋愛は似ている」というのは、就職活動を一緒にしている友達と飲んでいるときなんかに僕が話すこと。たくさんの精神的アナロジーがこの2つにはあるように感じられる。

例えば…

恋愛において、僕たちは「好きなタイプ」とか「憧れの人」なんかを胸にいだいて、そんな人との出会いを求めている。
金髪でボン・キュッ・ボンの外人が俺は好きだ!とか、「高身長・高収入・高学歴」の人とじゃないと結婚できない!とか。誰にでも、きっと、そんな理想がある。
でも、その理想の相手と付き合ったり一緒になることが、本当の目標なのだろうか。理想の相手と一緒になるために、自分を偽ったり、無理をして一緒になって、果たして自分自身は幸せになれるのだろうか。
《愛するということは、おたがいに顔を見あることではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ。》 ―サン=テグジュペリ『人間の土地』より
企業研究をするというのは、年収や忙しさを他社と比較することではない。それは彼氏彼女候補の背の高さや胸の大きさを比較しているだけであって、何ら意味が無いと僕は思う。
企業がどのような方向を見ているのか、そのためにどのような事業活動をしているのか、そしてそれが自分が将来見たい方向に近いのか。それこそが何よりも知るべきことであって、そしてそれはとても見極めるのが難しいことだと思う。


もう一つ。これは就活の最後に感じられる「虚しさ」であって、昨年就職活動をしていた僕の友人に対して書いたことでもある。
(⇒”就活の終わりの「虚しさ」は成長の合図”)
この「虚しさ」は、「マリッジブルー」、結婚を決めた相手と正式に一緒になる前に訪れる(らしい、僕は結婚したことないので、想像でしかないのだけれど)心のなかの動きとすごく似ていると思う。
たくさんの可能性から、最後の一つに決めること。就活の終わりだけではなく、きっと新社会人として社会に羽ばたく今の時期にも、同じブルーを胸に抱く友は多いと思う。
この気持ちを払拭するのは、実は結構簡単。自分が「隣の芝生は青い病」に感染していることを自覚して、自分の芝生をしっかりと見つめて、その青の深さに気づき、笑顔がつくれればOK。
周りばかり見ないこと。目の前にも、自分が手に入れたものの中にも、美しいものはたくさんある。


恋に落ちた理想の相手が自分を好きになってくれるとは限らない。その逆で、あまり意識していなかった人が自分のことを熱狂的に好きになってくれることもある。
愛することと、愛されること。どちらが幸せなのだろう。
その答えは、人それぞれ。

就活も恋愛も、勝利の方程式とか、絶対なんてないんじゃないかな。
ただ、真剣に思いを伝えれば、伝わる人には伝わるはず。
そんな出会いを信じて。

3/10/2014

「さよならだけが人生だ」

3月。
「卒業」という言葉が、周りでちらほらと聞こえ始めた。
始まりを感じさせる終わりの季節は、まだまだ寒さが厳しい(今日は特に寒い)けれど、三寒四温の歩みに沿って、ゆっくりと深くなっている。


「小学校の横に、桜が咲いていたよ」
母のそんな言葉を聞いて、朝、散歩に出かけた。
母校の正門の前に濃いピンクの花が咲いていた。河津桜だという。
まちなかでよく見かけるソメイヨシノは、もう少し経つと一気に開花して乱舞し、散る。それとは趣を異にする早咲きの河津桜は、群れず、少し濃いピンクの花々を、1ヶ月もその枝に抱え続けるという。
綺麗だった。



就活の合間に読み進めている、ドナルド・キーンの「果てしなく美しい日本」。
その中で、著者は詳細に日本人の慣習、風習、目では見えぬしきたり、宗教、そして季節感と美的感覚を捉えている。
『すべての日本人が等しく共有するもうひとつの楽しみは、季節の移り変わりの喜びだろう。日本人にとって、それははるかな昔以来のものである。(中略)1212年の昔、浮世を捨てて孤独な隠棲生活を送っていた鴨長明は、少なくともこの世の一つの楽しみに対するみずからの変わらぬ愛を表現して、「生涯ののぞみはをりをりの美景にのこれり」といった。』(p94)
『四季にはそれぞれ独特の食物がある。(中略)日本料理店へ行くと、客はふつう特に自分の好みの料理を指定しない。客が決めるのではなく、その日には何の魚、何の野菜、何の果物がもっとも旬であるかを、板前に指定させる。料理法自体よりも、新鮮さと、季節にかなっているかどうかが高く評価される。日本料理では、もっとも重要なのは、ひとつひとつの料理が自然の香りをとどめていることであり、この上ない成熟の瞬間に供することである。』(p95)
『時につれて過ぎ行くものや変わり行くものを嘆くのは多くの国民と文学に共通だが(日本もそうだろう)、日本に特有なのははかなさの中に美の本質を見出すことである。桜の花が日本の国花と考えられている事実は、それを裏書きしている。桜の花が咲き誇るのはせいぜい三、四日であり、一年のそれ以外の期間は、桜の木はただの厄介な代物に過ぎない。(中略)だが、わずか数日の楽しみのために、日本人は桜の気に対して寛容であるばかりか、至るところに植えて、純粋にそれを愛する。』(p134)
果てしなく美しい日本 (講談社学術文庫)  より)

食卓にも、菜の花がのぼった。



季節や文化について書くと、そこには図らずも気障な雰囲気や、周りの人が気づかぬことを悟ったような軽薄さが漂ってしまう。
けれど、僕は、そういったことを中心にブログに書く。SNSに投稿する。

高い料理の写真は、お金が無ければ得られない。
楽しい旅行の報告は、友と時間があって微笑ましい。
様々な結果報告は、勝者や挑戦した者だけに許される。

でも、季節(と、酒)は平等だと僕は思う。
貧乏も、暇無しも、敗者も、見上げれば満開の桜が誇り、それを見て心浮かれる気持ちや物思いに耽る機会は、人皆平等に与えられていて、そこには優劣がない、いらないと思う。
なるべく自由で平等なものを、みんなと共有できたらいい。そんなことを思って更新したり、酒を飲んだりする。
(⇒"お酒っていいよね")



別れがあり、出会いがある。
「さようなら」「ありがとう」そんな言葉を掛け合って、見知った人と別れを告げる。
満開の桜の中で。きっと、目に涙を蓄えながら。
東日本大震災から明日で3年。
散る花の中に想う人の影を見つけ、素敵なさよならを言えたら。

勘 酒   (于武陵)
勧君金屈巵     君に勧む金屈巵(きんくつし) 
満酌不須辞  満酌辞するを須(もち)いず
花發多風雨  花發(ひら)けば風雨多く
人生足別離  人生別離足る

この杯を受けてくれ 
どうぞなみなみ注がしておくれ 
花に嵐のたとえもあるぞ 
さよならだけが人生だ
(訳:井伏鱒二)