就職活動をしていると、街中には本当に僕のような就活生が溢れている。そう感じる。どの電車に乗っても必ず1人や2人は就活生がいて、なんとなくストレスというか、過剰に気にかけてしまう。
そんなことを久々にあった友人に話したら、
「私も街に出るけど、就活生なんてそんなに目につかないよ。竜さんが就活生だから、知らず知らずのうちに意識してるんだよ。」と。
その通り、だと思った。就職活動を始める前までは、スーツを着てる人はみんな「会社員」とか「働いている人」とか、日々の風景の一部としか認識していなかった。しかし、自分自身がスーツを着ることで、その一員になることで、その存在を知ることで、強く意識し見えるようになったのだろう。
海外の旅をしていると、町中ですれ違う日本人旅行客を意識してしまったり。
新しいカメラを買うと、人々が肩からさげるカメラの機種が気になったり。
料理を始めると、レストランで出される食材や調理法が知りたくなったり。
存在を知ることで、或いはその当事者になることで、僕たちは本当にたくさんのものが見えるようになるものなのだ。そんな当たり前のことに気がついて、ちょっと、気持ちが楽になった。
さて、タイトルに書いた「就活と恋愛は似ている」というのは、就職活動を一緒にしている友達と飲んでいるときなんかに僕が話すこと。たくさんの精神的アナロジーがこの2つにはあるように感じられる。
例えば…
恋愛において、僕たちは「好きなタイプ」とか「憧れの人」なんかを胸にいだいて、そんな人との出会いを求めている。
金髪でボン・キュッ・ボンの外人が俺は好きだ!とか、「高身長・高収入・高学歴」の人とじゃないと結婚できない!とか。誰にでも、きっと、そんな理想がある。
でも、その理想の相手と付き合ったり一緒になることが、本当の目標なのだろうか。理想の相手と一緒になるために、自分を偽ったり、無理をして一緒になって、果たして自分自身は幸せになれるのだろうか。
《愛するということは、おたがいに顔を見あることではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ。》 ―サン=テグジュペリ『人間の土地』より企業研究をするというのは、年収や忙しさを他社と比較することではない。それは彼氏彼女候補の背の高さや胸の大きさを比較しているだけであって、何ら意味が無いと僕は思う。
企業がどのような方向を見ているのか、そのためにどのような事業活動をしているのか、そしてそれが自分が将来見たい方向に近いのか。それこそが何よりも知るべきことであって、そしてそれはとても見極めるのが難しいことだと思う。
もう一つ。これは就活の最後に感じられる「虚しさ」であって、昨年就職活動をしていた僕の友人に対して書いたことでもある。
(⇒”就活の終わりの「虚しさ」は成長の合図”)
この「虚しさ」は、「マリッジブルー」、結婚を決めた相手と正式に一緒になる前に訪れる(らしい、僕は結婚したことないので、想像でしかないのだけれど)心のなかの動きとすごく似ていると思う。
たくさんの可能性から、最後の一つに決めること。就活の終わりだけではなく、きっと新社会人として社会に羽ばたく今の時期にも、同じブルーを胸に抱く友は多いと思う。
この気持ちを払拭するのは、実は結構簡単。自分が「隣の芝生は青い病」に感染していることを自覚して、自分の芝生をしっかりと見つめて、その青の深さに気づき、笑顔がつくれればOK。
周りばかり見ないこと。目の前にも、自分が手に入れたものの中にも、美しいものはたくさんある。
恋に落ちた理想の相手が自分を好きになってくれるとは限らない。その逆で、あまり意識していなかった人が自分のことを熱狂的に好きになってくれることもある。
愛することと、愛されること。どちらが幸せなのだろう。
その答えは、人それぞれ。
就活も恋愛も、勝利の方程式とか、絶対なんてないんじゃないかな。
ただ、真剣に思いを伝えれば、伝わる人には伝わるはず。
そんな出会いを信じて。