2/10/2022

昔で言う「藩」、今で言う「会社」

 映画を見ました。

『七つの会議』原作:池井戸潤


The 池井戸潤ワールド全快な痛快お仕事劇を舞台に、野村萬斎、香川照之、及川光博、片岡愛之助といったキャラしか立たない役者達が役を演じる。

「倍返しだ!」で流行した同系列のドラマが可愛く見えてしまうような癖だらけの映画でした。

ストーリーは、もう本当に池井戸潤の小説・劇にあるあるの展開なのだけれど、サラリーマン生活が長くなってきたせいだろうか…昔よりも中間管理職の苦悩葛藤・ジレンマがわかるようになってきた気がする。

この映画、原作者・監督が一番伝えたかったのは、エンドロールと共に流れる野村萬斎演じる主人公の独白シーンであると思う。

自分が勤務している会社はメーカー・ものづくりの会社ではないが、技術力をコアとして、非常に大きな構造物の設計・建造の監督を実施する。

つい数ヶ月前まで、自分も建造現場の最先端に立って勤務していたが、そこではノルマ・コスト・品質・安全が常に天秤に図られて仕事が進んでいく。

もちろん安全第一・品質第一というのは当然だけれど、さまざまなプレッシャーの中でそれをキープし続けるのは難しい。

そんな現場を知る人にとって、そして僕のように日本と海外の現場・職場での勤務経験が長い人にとって、野村萬斎が語る次の独白は強く心に響きのではないだろうか。

備忘録のため、書き起こした台詞をここに残す。

この世から、不正はなくならない。絶対に。


世の中でデータ偽装・隠蔽をやってるどの会社も一緒。何度だってやるってことです。


列車シートのデータ偽装をやってしまった日から20年間、ずっとこのことだけを考えていました。


人間ていうのは愚かな生き物ですからねぇ。


特に日本の場合、会社の上司が世間の常識よりも大事になってしまう。


なんてかこう、日本人のDNAに組み込まれてるって言う気がするんですよね。


藩のために、命をかける。


まぁ、カッコいい言い方をすると「侍」の生き様って言うんですかね。


昔で言う「藩」、今で言う「会社」。


それを生かすためなら、人の命より会社の命を優先しちまうっていう。


欧米の人が聞いたらそんな会社なんかとっとと辞めて


他に移ればいいって思うんでしょうけど。


侍はさぁ、藩から出されるのは負けだと思ってるんですよ。


忠誠心って言えば聞こえはいいけど、逆に、守られてもいて。


まぁ、そういう、持ちつ持たれつの日本独自の企業風土が


この資源も何もないただの島国を先進国にまで押し上げたという功績もあるわけで。


いいこともあれば、悪いところもある


一つ言えることは、ひたすらガキみたいに言い合っていくしかないんじゃないんですかね。


悪いことは悪い、命より大事なものはないって。


それができれば、なくなりはしないが、データ偽装・隠蔽なんかは


減るんじゃないかって思いますよ。







8/26/2018

平成最後の夏の終わり。

2018年、まだ終わっていないけれど、今年の日本の夏は強烈だった。


豪雨、猛暑、数多の台風襲来…暑い暑いと僕もメディアも騒いでいたら、今度は秋が一足も二足も早くやってきた。この週末、東京も新潟も最高気温は30度を下回り、湿気もぐんと下がり、水蒸気を含まない空の色は青く澄み渡っていた。
今日は一日東京をぶらぶらと散歩しながら街並みや道行く人々を眺めていたけれど、心なしか町も人々も余裕があってやわらかく、優しい。特別なことがあった日ではないけれど、今日はきっと多くの人にとって良い日だったのではないだろうか。


今朝、1つのコラムを読んだ。
平成ラストサマー、消費波打つ(日経MJ)
 書き出しは次の言葉で始まる。
今年の夏はちょっと違う。そう、平成最後の夏――。時代が動くこの瞬間、パートナーを探したり、平成を懐かしむイベントに参加したり、盛り上がらずにはいられない。時代の区切りが人々の心を揺さぶり、高ぶった感情は「エモさ」になってあふれ出す。
有料の記事であるため続きが読めない人もいるかもしれない。記事の続きは平成生まれの若い世代が、「平成ラストサマー」をイベント化、メモリー化、ブランド化し、アルバイトや消費活動へと動くさまを描いている。コラムであるので深い内容ではないが、なんとなく続きを読んでしまう文章だった。
興味をひかれた一番の理由は、僕も当事者だから。平成元年に生まれ、今までの人生のいたるところで平成ブランドを使ってきた。だから平成が終わっても変わらず「平成」を感じながら生きていくだろう。「昭和っぽい」が古めかしいと同義で使わるように、「平成っぽい」がいずれは古さやダサさを形容する言葉になったとしても。


「平成最後の…」という言葉を僕がメディアを通じて頻繁に聞き始めたのは、この夏の、特に終戦関係のニュースからである。大学でジャーナリズムを学んでいるときに、沖縄へのフィールドワークを通じて先の大戦をどのように伝えるか、何を後世に残すべきかという話を当事者・ジャーナリストからたくさん聞いた。その中で、ある新聞記者が言っていた次の言葉が記憶に残っている。
「毎年夏になると、新聞記者は大変なんだ。ジャーナリズムの使命として、終戦はとりあげなければならない。でも、さすがに70回もとりあげているから、切り口がみつからない。どうやって今年の終戦を記事にするか、人々の心に残るようにするか…毎年試行錯誤です。」
今年は平成という一つの時代が終わる節目となり、しかもそんなことは通常は予期できないことである。そのため、各メディアがこぞって言葉の掛け算をしてオリジナリティを演出していた。
「平成最後」×「終戦記念日」
「平成最後」×「夏休み」
「平成最後」×「お彼岸」、とかとか。
何より今はマスメディアではなくひとりひとりが、とりわけ流行の風を敏感に掴み取る若者が、こういった言葉の掛け算やオリジナルな発信を行っていく。
彼らの時代の風を感じ取る能力は絶大だ。
そんなことを先の記事では取り上げていた。


平成最後の秋が来て、冬が来て、そして春が来て、平成は終わる。
時代は年号を変えるだけで継ぎ目なく連なっていくけれど、人々はそこに大きな意味を見出す。大晦日の終末感、新年の新鮮さ、そんな感情と同じようなものをいだきながら。

平成ラストサマー。僕の生まれた年代の最後の夏が終わる。
でも、これは元号だけに限ったことではないけれど、終わりは常になにか別のことの始まりである。
まだ発表されていないから誰もがそれを表現できずに言葉の掛け算遊びができないが、「新たな元号」×「なにか」が半年もすれば世間を騒がせるだろう。

それまではしばらく、「平成最後」を名残惜しみつつメディアと一緒に騒ぎ立てよう。
終わりよければすべて良し、それがいいかどうかはわからないが、「平成っぽい」が少しでも明るいイメージと共に後世に伝わるように。







5/06/2018

『愛するということ』

結婚しました。

2017年10月29日、4年間付き合っていた彼女にプロポーズし、その後家族の顔合わせ、結婚式場の予約などを済ませていたりしていたらあれよあれよと時間が過ぎ去り、入籍が4月22日。結婚式は来年の予定。
新しく戸籍を作るとか、両親の戸籍を出ることとかを経験し、「籍」という今まではあまり意識しなかったものと直に触れ合って、日本って今でも集団的家族主義の名残があるんだなぁと驚いたり。
戸籍の筆頭者になったのだから頑張らなければ!という変な気負いは今のところない。けれど、大好きな彼女→妻と共に歩み出すための1つの枠組みを社会からもらえたことは素直に嬉しい。未依、これからもよろしく。


プロポーズして結婚することが決まってから、「結婚」に関する本を何冊か読んだ。
結婚準備本、出会い本、別れ本、婚活本、いい女本、お金本…
恋愛から結婚、そして別れ(離婚も、死別もある)に至るまでの過程で、多くの人が多様なストーリーやフィロソフィーを築き上げ、文章化して残している。本だけでなく音楽でも、絵画でも、詩でも、ダンスでも、「結婚」や「愛」は太鼓の昔からある普遍のテーマである。
恋は、愛は、結婚は、それだけ人の心を強く動かすものであるということ。
そしてただひとつの答えがないものでもあるということ。
当たり前のことだけれど、改めて絶対方程式のない恋愛や、ゼロイチの電脳世界からは生まれないであろうこの感情は、すごいと思う。

どの本も面白かったのだけれど、やっぱり恋愛や結婚に際して僕がいちばん好きな本、そして自分の「愛」に関する考え方の根幹となっているものは、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。
(→Amazon:愛するということ 新訳版

ゴールデンウィーク中に実家の片付けをしていたら昔読んだ付箋だらけの本が出てきて、改めて読んでみた。こんなに沢山も「愛」という言葉が出て来るにも関わらず、甘くなく、至極現実的であり、それでいて愛を直視してその重要性を説いている。
ロマンティックではない、リアリスティックな愛。僕はそれを本物の愛だとも感じる。
夫婦や家族や親友という長い期間を共にする人達との間において、言語化するのは難しいけれど確かにある「絆」や「信頼」、それがフロムの言う「愛」である。

以下に、沢山の付箋箇所から、特に心に残ったものを抜粋。
もしこの中に響く言葉があったら、是非この本を読んてみてもらいたい。
僕らのような新婚さんにも、出会いを求めている人にも、パートナーのことを愛せなく鳴った人にも。きっと、なにか大きな気付きがあるはずです。読んでみて、愛ってなんだろうね、難しいねと語り合うこと、それだけでもきっと良い時間になるはず。

以下、愛するということ(新訳版)紀伊國屋書店より引用。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知力と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし、今日の人々の大半は、後者の方を信じているに違いない。(p12)
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。(P68)
もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。 ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。それどころか、誰もが、「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ信じている。これは、私たちが先に述べたのと同じ誤りである。つまり、愛が活動であり、魂の力であることを理解していないために、正しい対象を見つけさえすれば、後はひとりでにうまくゆくと信じているのだ。 (p76)
幸福な結婚に関する記事を読むと、かならず、結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。(中略)同じように、結婚カウンセラーは言う―夫は妻を「理解」し、協力すべきだ。新しいドレスや料理をほめなくてはいけない。いっぽう妻のほうは、夫が疲れて不機嫌で帰宅したときには優しくいたわり、夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときには心をこめて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、理解しようと努めるべきである、と。
 (中略)愛と結婚に関するこうした考え方では、堪えがたい孤独感からの避難所を見つけることにいちばんの力点が置かれている。私たちは「愛」のなかに、ついに孤独からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界に対して、2人から成る同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の情だと誤解されている。(p134)
現代人は自分を商品化してしまった。自分の生命力を投資だと感じ、自分の地位や人間市場の状況を考慮しつつ、その投資によって最大限の利益をあげようと必死になっている。(p156)
愛の本質について先に述べたことに従えば、愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。(p176) 
愛の修練にあたって欠かすことのできない姿勢がある。これまでは、それについて暗にほのめかすだけだったが、ここではっきりと論じる琴似私用。というのも、それは実際に人を愛する基盤だからだ。何かというと、それは能動性である。(p190) 

8/26/2017

皆既日食

その瞬間、僅かな静寂と、それに続く感嘆の声がアイダホの平野に広がった。
たった2分間の皆既日食。
その瞬間のために全米から、世界中から、人々が集まっていた。

360度全方向に広がる夕焼けのような景色。
月に隠れてもなお世界を明るく照らす太陽。
コロナがもたらす不思議な質感の光。
夕凪のような静けさ。
影のない世界…。

それらすべてが、2分間と、その前後数分間に凝縮していた。
ただただ美しく、神秘的だった…。


「死ぬ前最後となるかもしれない皆既日食を見たい。」
父親がそんなことを言ったのは確か半年以上前のことで、そのときは何を言っとるんだと思った。
病気にかかったわけでもなく、まだばあちゃんだって健在である。
なのに、どうしたのだろうかとよくよく話を聞いてみると、アメリカ大陸を横断する既日食が8月に起こるという。
実は皆既日食という現象自体は毎年どこかで発生している。
しかし、その多くが海上であったり、僻地であったりして、僅か数キロの幅でしかない皆既日食帯にて完全な日食を見ることは容易ではない。
今回はアメリカ大陸を横断する好条件、つまり天気が悪ければ大陸の東西に移動でき、かなりの確率で見ることが可能となる。
そんな条件での皆既日食がアメリカで発生したのは30年前のこと。次はまた数十年後。
そんな理由から、56歳の父親にとっての「最後かもしれない皆既日食」となったらしい。


誘われたのはいいけれど、行くかどうか、ちょっと考えた。
正直、僕はそんなに天体観測に興味はない。
また、僕にとっては最後でもなんでもない。調べてみると15年後にも日本・仙台あたりで皆既日食があるらしい。
28歳の僕にはまだ皆既日食を見る機会はおそらくある。

でも、行きますか!と、承諾した。
お金も、休みも、やりくりすればなんとかなる。
しかし、この先きっとやりくりすることができないのは、「家族との機会」だ。
「家族との時間は、僕たちが考えているよりもずっと短い。」
5年前に書いたブログであるけれど、社会人となり地方で働き暮らしてからその「短さ」を強く感じる。
家族が元気なうちに、なるべく親孝行しておこう。
そう思っての親子旅、旅行でもあった。


旅行は山の日の3連休も使って合計13日の旅程となった。
父親が行きたいというイエローストーン国立公園、自分が行きたいというグランド・ティトン国立公園を巡り、旅の最後に日食を見るロードトリップ。
国立公園の大自然も本当に素晴らしく、父親と動物や風景を追い求めひたすら車を走らせ、トレッキングを歩き回るとても良い思い出となった。
そして8月20日、皆既日食の前日、ポートランドまで戻ってくる。

その段階でもまだ、僕の中では皆既日食は親父の付き添い程度の考えでしかなかった。
撮影のための器材を準備し、日食のスケジュールを綿密に立ててきた父親とは温度差があった。
「どこでも、父さんの好きなところで見ていいよ、車の運転は手伝うから。」
長旅の疲れもでており、そんな程度の感心しか抱いていなかった。


8月21日早朝4時。
それよりさらに30分早起きしてネットで天気を調べていた父親の判断により、天気が良さそうなオレゴン内陸の土地、車で2時間ほどのマドラスへ向かうことにした。
早朝なのに、マドラスへ向かう車道には既に多くの車が走っており、100%の皆既日食が見れる土地に近づくに連れて、大規模駐車場に多くの乗用車・トレーラー、そしてキャンプをしている人々の姿が現れてくる。
脇道に入り、ピックアップトラックの後ろに車を停め、そこで見ることにした。
到着時刻は早朝6時頃。

僕らが観察場所に選んだ土地における日食のスケジュールは、次の通り。
日食の開始時間は9時7分で、そこから次第に月と太陽が重なりはじめる。
10時40分に皆既日食。
2分間、太陽と月が完全に重なり合う。
その後、皆既日食は解け、今度は次第に太陽が月の影から姿を表していく。
11時40分、日食が終わる。

日食開始まで3時間近くあるため、車の中で仮眠をしていたら、次第に外が騒がしくなってきて、カメラのセットアップをしていた父親の会話声も聞こえはじめた。
自分たちの車の前後に停車したインド系アメリカ人達、テキサスから来た白人のおばあちゃん、イタリア人の夫婦が自然と集まり、色々話しをしながら一緒に見ることになった。
「このカメラすごいね、どれくらい見れるの?」
「雲が出てきたね、少し心配」
「日食って実は、世界中で毎年どこかで発生しているけど、その多くが海の上なんだ」
「お菓子いっぱいあるけど、食べる?インドのお菓子もあるよ」
次第にお祭りムードとなり、無関心気味だった僕のテンションも上がってくる。

9時7分、月の影がゆっくりと、ゆっくりと、太陽を蝕んでいく。
観察用のグラスをみんな着けて、「見える!見える!」と互いに話す。
それからの1時間ぐらいは、空の明るさも雰囲気もあまりかわらない。
太陽は、その一部が欠けたぐらいでは全くもってその影響を大地に落とすことはない。

月が太陽の80%ぐらいを侵食すると、しだいに空が暗くなるように感じられた。
肌寒くなってくる。
明らかに太陽光が弱まっている。
風が、どこからともなく吹き始める。日食直下の大気温が下がり、周囲から空気が流れ込んできているのだ。
鳥が、夕暮れだと勘違いしたのか、俄に鳴き騒ぎ始める。
なにか、すごいことが起きそうだという予感があたりをつつむ。
「500年前だったら、きっと多くの人が異常現象に驚いて、神を恐れたりしたんだろうね」
インド系の男性がその光景を眺めながらポツリと言った。
その通りだろう。あきらかに日常とは違う空間が当たりを包んでいく。

そして、たった2分間の皆既日食がはじまった。

そこで起こったできことは、このブログの最初に書いたとおり。

予想を超える美しさ、神秘的な雰囲気が360度全方向に現れ、静寂と歓声が辺りを包んだ…。

「あーくそっ、2分前のあの空間に戻りたいぜ!」
一緒に皆既日食を見ていた1人が言った。
「あの日食、本当にすごかった!私、泣いちゃったわ」
帰り際、ひどい渋滞待ちをしているときに、モンタナから来たアメリカ人の女性が感想を伝えてくれた。

一緒に日食を見たメンバーみんなで感想を言い合い、互いに連絡先を交換し、写真をとりあい、壮大な天体ショー見学は終わった。



2012年5月21日7時30分、いまから5年前に、日本では金環日食があり、そのときも僕は鳥肌が立つほどの感動を覚えた。⇒『鳥肌』
ゆっくりと、ゆっくりと、時を経て世界が変わっていく様、そこから表れる重厚な美しさに僕はどうやら心惹かれるようだ。

現代は、CGやアニメやVRなどで、現実そっくりな風景、さらには現実を超えた現象を作り出すことができる。
それらは確かに美しいが、どうしてもインスタントな美しさ、パット見て綺麗だと思わせることに特化しているように思えてならない。

今回僕が見ることができた皆既日食を、CGやVRで多くの人に感動させるようにつくることは、僕はできないと思う。
なぜなら、あの場に立ち、刻々と変わる明るさや雰囲気を全身で感じ、そして訪れるとてつもなく大きなものに圧倒される感覚は、有限な大自然の前でしか訪れないと強く感じるから。

皆既日食だけではなく、身の回りの自然が作り出す深みのある美しさにも、常に気がつけるようにいたい。
世界は、美しいものにありふれている。
空も、花も、森も、動物も。
それらの美しさにもっと気がつけるように、そしてそれを全身で受け止められるように、生きていきたい。そう思った。


8/10/2017

8月9日という特別な日

気がつくと夏の空になっていた。
入道雲が湧き立ち、立体的な青と白のコントラストをつくる。
坂の街・長崎では、そこに小高い山々と住宅地が重なる。
三方を山で囲まれた港町だから、平地のほとんどは商業地になっており、追いやられた住宅地は山頂に向かって広がっている。
石段の坂、その両側に墓地や家や教会がある。
人も、死者も、傾斜地に住み、それぞれの高さから世界で最も美しい港の1つといわれる長崎港を見下ろしている。


先月のこと。出張で広島・長崎を訪れて、そのまま週末を長崎で過ごした。
4年ほど前にも、この土地を訪れたことがあり、そのときも1人だった。
グラバー園、教会群、竜馬の道、造船所…数多くの観光名所を駆け足で巡ったけれど、4年前も今回も、やはり心に残ったのは戦争関連の史跡、平和公園や原爆資料館だった。
初夏、というよりはもう夏本番を思わせる陽ざしと暑さ。濃い緑に隠れて蝉がけたたましく鳴り響く。
72年前の夏、きっと同じように暑く気持ち良い日に、原爆は落ちた。
長崎を国際色豊かな港街ではなく、悲劇の街として世界に有名にさせた1日が、1945年8月9日だ。


8月9日は僕の誕生日であって、小さい頃から僕の特別な日は、日本社会の特別な日でもあった。
ただ、その特別さは未来永劫続くものなのだろうか。
歳を重ねるに連れて、誕生日という1日が本人にさえも、過ぎ去る光陰の単なる1日としか捕らえられなくなるようになってくる。
同じように原爆が落ちて何万という人々が亡くなった1日も、次第に人々の心から記憶が薄れ、その特別さは薄らいでいく。
「悲しみは時間が癒やしてくれるよ」
そんな言葉がある。これは真理だと思う。
けれど、時間に影響を受けるのは悲しみの専売特許というわけではない。

喜びも、悲しみも、誰かが生まれた日も、沢山の人が死んだ日も…
時間という大河の中において、過去の特別な日々というものはしだいに平面的にならされていくもののように思える。


お盆休み前の昨日、残る仕事がないように、少し遅くまで仕事をしていた。
誕生日であることをあまり意識することなく1日が終わろうとしていたけれど、友人から、家族から、LINEやFacebook越しに、
「おめでとう」
の言葉をもらい僕の8月9日は少し特別になった。
夜に見たニュース、今朝読んだ新聞で、今年も長崎市長による「長崎平和宣言」が取り上げられていた。少し強めのメッセージと共に。
⇒平成29年『長崎平和宣言』
⇒朝日新聞デジタル 長崎市長、平和宣言で政府批判 「姿勢理解できない」
日本という社会もまた、8月9日をとても特別な日として残そうと頑張っていた。


いつまでも、特別であったらいいなと思う。
たくさんの誕生日メッセージ、ありがとうございました。
You made my day special, thanks.





2/05/2017

「理解はできないが、受け入れる」

ダーウィンにて。
 
 
こちらにきてから、駐在員の先輩方にとてもお世話になっている。
 
異国での数ヶ月の滞在は、旅行者になるには少し長くて、しかし深く根を張り生きるには短い。
物理的にも精神的にも、今までのつながりを断ち切られた雰囲気が漂い(もともとつながりが多い方ではないのだけれど)、何となく寂しく心許ない。
 
そんなときに、特にローカルの人々が活気付く週末やオーストラリア・デーなどの祝日に、「◯◯やるから一緒にやろう」と声をかけてくれる先輩の声にホッとする。
 
 
そんな先輩の一人から頂いた1冊の本を、珍しく悪天候な休日に読んだ。
 
 
あらすじを、引用。
 
「理解はできないが、受け容れる」それがウェスト夫人の生き方だった。「私」が学生時代を過ごした英国の下宿には、女主人ウェスト夫人と、さまざまな人種や考え方の住人たちが暮らしていた。ウェスト夫人の強靱な博愛精神と、時代に左右されない生き方に触れて、「私」は日常を深く生き抜くということを、さらに自分に問い続ける――物語の生れる場所からの、著者初めてのエッセイ。
「西の魔女が死んだ」などが有名な梨木香歩さんがイギリスに滞在していた下宿先には、寛容なウエスト夫人を慕って(或いは善意につけこんで)、様々な人々が滞在する。
宗教、人種、地位、文化的社会的背景やステータス。。。
そんな人々に対するウェスト夫人の生き様は、この記事のタイトルに使った「理解はできないが、受け入れる」というもの。
 
物語のひとつ「トロントのリス」の中に、アスペルガー症候群のジョンとの話があり、心に残った。
アスペルガー症候群/自閉症に関して、客観的な説明を述べ、ジョンと著者との会話を中心に話が進む。
ジョンは化学者であり、理論的合理的な学問の中に自らの居場所を見つけている。
一方で彼は、普段の生活の様々な抽象的なこと、曖昧な表現、ルールが決まっていないものとの折り合いをつけることを苦手としている。
 
―昨日、ある集まりがあって、司会者に、じゃあ、ちょっと前に出てみてください、といわれたんでどんどん前に行って、その人の顔のすぐ目の前まで行ったんだ。そしたらみんな笑うんだよ。ジョークだと思ってるんだ。ところが僕ときたらなぜ笑われているのかわからないんだ。その人が驚いた顔をして、ハローというので、何か不都合なことをしたんだ、って分かったんだ。 
―そうか、どこまで前へ出てください、って相手は言ってないんだものね。どこからどこまでが、彼の考える妥当な「前」なのか、範囲を指定してなかったのだものね。普通は「彼」の前でなく、ぎりぎり「聴衆全体」の前ぐらいでいいのかもしれない。でも相手の目の真ん前だって、前には違いないんだもの。言ってないことを察するのは難しいね。
 
ジョンの、察することが難しいという、世間一般的に「アスペルガー症候群」「自閉症」と呼ばれていると特性。
この特性に対して、著者は言う、誰でもみなこのような自閉的な特質を持ち合わせている、オールorナッシングではなく、単なる大小の問題なのではないか、と。
ここからは自閉症、ここまではそうでないという線は、だから、実はどこにも引けないのだ。先に述べたようにその傾向は大なり小なりあらゆる人々のうちに偏在する。ボーダーというよりグラデーションで考えよう。
 
「ボーダーというよりグラデーションで考えよう」という考え方が本当に好きだった。


この本の中で一貫してこめられていたメッセージは、相手を理解しましょうねとか、人間は本質的には同じものだよ、という類の異文化理解のススメではない。
根本的に他者は理解できないということを前提に置き、それでは私とあなたの「間」にはなにがあるのか、どのような架け橋をかけることがが美しいのか、点と点を結ぶその「空間」に対する鋭く深い考察である。


そしてこの他者とのつながり方を考えるということが、今の僕たちにとって、とても大切なことなのではないかと読みながら考えた。
一つ前のブログで書いた同調する意見を持つ人だけで固まりがちなSNSがはびこる時代に、異国の人と接する機会が多い時代に、そして、「理解できないものは、排除する」「ボーダーをつくる」というナショナリズムが声高に聞こえてくる時代にとって。





「トロントのリス」というエッセイの最後、ジョンとの会話は、このような言葉で締めくくられる。
―人と人とが本当に理解し合うなんてことはないんじゃないかな、まあ、それでも一緒にコーヒーは飲めるわけだし。
この心持を大切にしていきたい。


コーヒーでも、ビールでも、お茶でも 、チャイでも、なんでもいい。
親しい人、見知らぬ人、理解できない人とでもいい。
同じテーブルにつく。
一緒に語らいあう。
小さな小さな会話を重ねあう。


「あ、こいつとは分かり合えんな」と思ったとしても、その事実を受け入れる。
分かり合えない人とコーヒーを飲めたことに、価値がある。




1/24/2017

靴の紐をしめて、エコーチャンバー(共鳴室)から出てみる

今日は少しだけ、心に残った記事と、スピーチと、昔読んだ本について。

海外に行く、旅に出る、あるいは非日常を経験する。
その時に、何を求めるか、何を知ろうとするか。
慣れ親しんだものことを無意識のうちに探して見つけては安堵するのか、或いは初めて見るものに疑問を感じそれを試してみようとするのか。

もっと具体的に話をしてみると、旅の途中のスタバやマックにホッとするのか、名も知らぬ食べ物を売っている屋台やお店に入ってみようとするのか。そんなこと。

歳を重ね、自分の中のスタイルが出来上がってくると、自然と僕らはそこにしがみつこうとする。失敗したくない、時間をロスしたくない、イメージを崩したくない、仲間はずれにされたくない。

そうやって僕らは次第に挑戦をしなくなる。
幼いころに感じていたつまらない大人に近づいていく。
記事の中にあるようなエコーチャンバー、共鳴室で、自分のスタイルが周りから聞こえてくることに安寧するのだろう。

3年前の夏、僕は1人で沖縄にいた。
その時の自分は進路に悩んでいて、軸もいまよりブレブレだったけれど、共鳴室には入っていなかったように思う。『検索ワードを探す旅』を楽しみ、果敢に挑戦をしていた。

オバマ氏がスピーチで伝えるように、靴の紐をしめて政治活動を…ではなくて、もっと気楽に、靴の紐をしめて、新しい経験に挑戦してみよう。居心地の良いエコーチャンバーから抜け出してみよう。改めてそんなことを思った日。

とりあえず明日は、ベジマイトをスーパーで買って食べてみよう。
街を歩き気になった初めて見る旗を写真に撮り、その意味を調べてみよう、周りのOGに聞いてみよう。



2017年1月24日日経新聞朝刊、グローバルアイの記事より引用。

「エコーチャンバー(共鳴室)現象」。昨年の米大統領選以来注目される「偽ニュース」問題では、ソーシャルメディアの特徴をとらえたこの言葉がしばしば登場する。
価値観や考え方が近い人同士がつながりやすいソーシャルメディアでは、共有される情報が偏りやすく、意見が極端になりやすい。それどころか、真実かどうかより、共感できるかどうかが重視される。「ポスト・トゥルース(真実)の時代」とも呼ばれるこの傾向こそが、偽ニュースが拡散する土壌を育んだという指摘だ。 
「もしインターネット上で見知らぬ人と議論するのに疲れたら、外に出て人に話しかけてみるといい」。10日、大統領としての最後の演説でオバマ氏がこう呼びかけたのは、決して偶然ではない。深まる米社会の分断を修復する糸口を自分なりに探す旅に出たザッカーバーグ氏に、親交のあったオバマ氏の助言は重く響いているはずだ。

この記事の中で引用されている、オバマ元大統領のフェアウェルスピーチ。
New York Timesのビデオとスクリプトから言葉を引用。
President Obama’s Farewell Address: Full Video and Text

21:00
For too many of us it’s become safer to retreat into our own bubbles, whether in our neighborhoods, or on college campuses, or places of worship, or especially our social media feeds, surrounded by people who look like us and share the same political outlook and never challenge our assumptions. In the rise of naked partisanship and increasing economic and regional stratification, the splintering of our media into a channel for every taste, all this makes this great sorting seem natural, even inevitable.
And increasingly we become so secure in our bubbles that we start accepting only information, whether it’s true or not, that fits our opinions, instead of basing our opinions on the evidence that is out there.
37:30
Citizen. So, you see, that’s what our democracy demands. It needs you. Not just when there’s an election, not just when you own narrow interest is at stake, but over the full span of a lifetime. If you’re tired of arguing with strangers on the Internet, try talking with one of them in real life.
If something needs fixing, then lace up your shoes and do some organizing.

1/15/2017

たった、3度目の海外

オーストラリア、パースに来ています。
人生3回目の、ちょっとだけ長い海外滞在。
自分自身の海外経験を、ゆっくりとした日曜日の夜に、少し振り返ってみる。


19歳のときに初めてパスポートを取得して、21歳のときに1年間留学。
留学先のサンフランシスコでは、自分が思っていることを全く言語化できなくて、アメリカの友達、世界中から集っていた留学生達との会話に本当に苦労した。
「朝起きたら、英語がペラペラになってたらいいのになぁ…」
そんなことを、僕と同じ立場の友人と話していた。
2ヶ月、3ヶ月と過ごしているうちに、次第に耳が英語に慣れていった。
相手が言っていることを理解できるようになり、英語での受け答えがスムーズに進むようになった。

そんな生活を送っているうちに、ふと考えたことがあった。
英語には慣れてきたけれど、一体僕は英語で何を伝えたいのかな、と。
「そうだね、うんうん、僕もそう思う、わかるよその気持ち」
そんな種類の相槌をバーやパーティで使いまわして、バリエーションを増やして、英語が上手くなった気になっていた。
けれど、本当に大切なことは、そういった上辺のものではない。
感情の揺らぎ、誰かに伝えたい事柄、共感してほしい思い…そんな心の奥底からふつふつと浮かんでは消えていく感情なのだと思った。

ふわふわとしたそんな気持ちをガシッと捕まえて、言語化するためにはじめたこのブログ。
少し恥ずかしくなるような幼稚な内容でも、「伝えたい」と思ったことを書き綴っていて、気がついたら6年。
色々な気持ちを言語化していた。


24歳のときに2度目の海外留学。
3ヶ月間、アメリカの大学で研究生活を送った。
前回の留学の経験から、日本の文化や慣習を客観的に理解して伝えられる素養を持つことを出発前から大切にしていた。
新渡戸稲造の「武士道」、ドナルド・キーンの「果てしなく美しい日本」、ルース・ベネディクトの「菊と刀」などを読むことで、灯台もと暗しな日本人観を知り、ハッとした。
また、あまり言語に捕らわれず、研究でもプライベートでも、自分の思いや考えを持つこと、それをジェスチャーでも歌でもパッションでもいいから、伝えるように心がけた。
1度目とは違い誰かと語り合う時間を多く得られたし、またブログに綴ってきた気持ちが、国籍を問わず共感を得てもらえる事を知った。


そして、27歳、3度目の少し長めの海外。
英語も着実に上達してきて、海外の慣習やそこでの身の振り方も、知識と経験で多く身につけてきた。
けれど、ちょっとだけ、そこに天狗になっている自分がいるかも。
一緒に訪れている同期の友人に対して、海外生活に関して講釈なんかを垂れたりして。

今日、パース市内の図書館を訪れた。
綺麗な館内の最上階で、日本人と思われる僕と同年代の男性を見つけた。
ヘッドホンを付け、オンライン英会話だろうか、PC越しに誰かと話しながら何度も何度も発音練習を繰り返していた。
「どうすれば✕✕✕の発音がもっと上手くなるかな?」
そう問いかける彼の英語力は、僕のものと大差がないように聞こえた。


もっともっと勉強をしよう。
貪欲に学ぶ姿勢を持っていこう。
英語も、日本についても、研修内容も、オーストラリアについても。
今までの経験をどうやって活かすか、ではなくて、いかにして新しいことを学ぶかを最優先にしよう。

4年前に書いたブログが、今になって自分の心に響いてきた。
英語を再び学び直す

「学ぶことを止めたら、そこから老いは始まる。」
昔どこかでそんな言葉を聞いたことがある。真理であると思う。
27歳、経験も、知識も、そこそこに蓄積されてきてしまったこの時期は、もしかしたら老いと若きの分水嶺かもしれない。

学び続ける姿勢を忘れずに。
3度目の海外滞在は、ベテランでもなんでもなく、「たった3度目」。
そんな気持ちに入れ替えて、過ごしたい。


12/17/2016

「気分」というもの

久々に、文字を綴ります。


ブログを書くことができないほど忙しいわけでもなく、
かといって書くこと思うことがないから手が止まっていたわけでもない。

一言で言えば、単に「書く気分」ではなくなっていた、それだけのこと。
「気分」というものは、当然僕だけに限ったことではなく、とても大きく人の行動に影響する。
ある人は気分屋なんて言われて、それはつまり癇癪を起こしやすかったり冷めやすい人のことを意味して、
否定的なニュアンスが多分に含まれていたりする。
けれど、裏返せばこの「気分」というものは行動の大きな推進力や支持力と捉えることもできて、
ある期間に、何かを成し遂げるために必要不可欠な力も、「気分」なのだと思う。

そういう意味で言えば、僕もやっぱり気分屋で、様々な気分が出たり入ったりしている。
書く気分のときは、かつて、ひたすら文字を書いていた。
旅の気分のときは、とにかく海外に行きたくて仕方がなかった。
学ぶ気分のときは、カフェやレストランにこもって勉強した。
走る気分のときは、1ヶ月に200kmも走った。
服の気分のときは、良いファッションを知りたくて仕方がなかった。

そして、最近で言えば、山の気分と本の気分。
今年はたくさんの山に登り、たくさんの(主に山が関わる)本を読んだ。
数えてみた。
山行の数、13。踏んだピークは30峰をこえる。
読んだ本の数、91冊。写真集や漫画も、数には含めないけれど多く手に取った。
これもまた気分だとすれば、いつかは違う気分に取って代わる一時的なものなのだろうけれど、
それを積み重ねていくことが、ちょっと大げさに言えば、人生のようなものなのだろうと僕は思う。
気分屋、万歳。


話はかわり、来年1月から3ヶ月間、オーストラリア・パースへ行ってきます。

旅立つ前にオーストラリアに関する本を数冊読んだ。
アメリカやカナダと同じ「新世界国家」でありながら、異なる歩みを進んだ歴史。
個人主義のアメリカとマイトシップのオーストラリアとの対比。
そのマイトシップを拡張し築き上げた多文化共生という国のかたち。
そんな共生謳う政府と大いに矛盾するアボリジニ社会の問題。

多民族主義、多文化主義も、いろんな国から来た人の料理が食べられるとか、
様々な国の踊りや音楽、芸術が楽しめるといった段階では「楽しいね!」でこと終える。
けれど、異なる文化の衝突や軋轢が、法律とか国のかたちにまで展開すると、難しい。
折しも今年は英国のEU離脱とか、アメリカの独自路線が決まる様子を、目の当たりにしてきた。

文化の共存ってなんじゃらほいと、そんなところまで感じ考えることができたらいいなぁ。


9/04/2016

夏の思い出としての映画、『君の名は。』

彼女との約束を反故にして、安く映画見れるチケットも使わずに、他にもやらなければならないことがあるのに、ただただ衝動に駆られて1人で映画を見てきた。

新海誠『君の名は。』



僕の好きなRADWIMPSが全編の音楽を手がけていて、見たいと思っていたけれど仕事や勉強で忙しく、後回しにしていた。

今日、久々に東京の地元に帰ってきて、晴れ空を見上げた。
夏の空だった。
ピークを過ぎ去り、もうすぐ終わりに向かう美しく、そしてどこか懐かしい夏の空だった。

小さいころの夏の思い出は、母さんと、弟と、池袋に映画を見に行くことだった。
人混みだらけのサンシャインシティ60通りを行く。
ポケモンであったり、クレヨンしんちゃんだったり、大抵なにかのアニメの映画を見る。
その帰りにはゲームセンターでゲームをして、デパ地下でジェラートを買ってもらう。
なんでもない夏休みだけれど、だからこそ、しっとりと心に染み付いた僕の夏の思い出となっている。

年をとって、大人になって、今でも映画は見る。
けれど、そこには「夏の思い出」を喚起させるものは、ない。
季節を問わず映画を見に行くようになってしまったし、意中の人と近づきたいという下心があったり、好きな人との、数多あるデートプランの1つとして映画を見るようになってしまっている。
それを悪いとは思わないけれど、小さいころのような純粋な気持ちだけを抱いて映画を見たことが久しくないことに気がついた。

そんなことを歩きながら考えていたら、たまらなく映画が見たくなって、その足で見に行ってしまった。



映画はとにかく良かった。
鳥肌が立つぐらい甘酸っぱい青春の映画だった。でも、それをたくさんの大人が本気で届けているという事実。
子供は、子供なりにこの映画から何かを得るだろう。
大人は、かつての子どもとして何かを悟るだろう。
少し笑ったし、たくさん泣いたし、
なんか色々と話したくなった。

「おーい、今晩暇?俺今東京にいるんだけど、飲もうぜ!」

そう言って集まってきてくれた小学校時代の親友たち、4人。
数年ぶりに会った奴もいたけれど、思い出は腐らない。
小学校の時の足の速さ、自転車で繰り出した小さな冒険、意味もなく集めまくったオナモミと酒蓋、 恋愛と、映画の話。
飲み屋の閉店まで飲み続けて、友達の家で奥さんに怒られそうになるギリギリまで酒を飲んだ。

買い出しに行ってきた馬鹿野郎が花火を買ってきて、やろうぜ!って言って火をつけた。
晩夏の花火。
きっと、27歳になった今年の夏のハイライトは今日になるだろう。

子供は大人ではない。
でも、大人はきっと大きくなった子供だ。いつまでも。

兵庫、いまっち、隼人、たけち、ありがとう。
今日は本当に良い一日だった。


8/04/2016

あなたはどうして日本人?

英国は6月23日に行われた国民投票でEU離脱を選んだ。
その後関連するニュースが連日取り上げられ、その影響が、とりわけ経済面で及ぼすであろう悪影響がいまも盛んに論じられている。
でも、しかし、このタイミングで僕はもっともっと「国」という形式について議論や解説があってもよいのではないかと思う。英国・UKという国が、EUという枠組みを離れる決意をしたこと。これは国という形式に現代の人間はまだまだ依存しているということを強烈に示したものである。
国という人工組織から卒業できない、現代人間の限界を示しているものであると僕は思う。


大きな問題だけれど、よくよく「国」について考えてみると、これは全くもって人間が作ったものである。数千年も前に、人間の恣意によってできた形式に事を発している。そして、1000年、2000年もそういう形式を継続した結果、多くの人間の心の拠り所、根付く土台としての堅牢な「国」ができあがった。


親の思想、学校の教育、日々接する情報(昨今巷にあふれる「日本」「和風」を強調したテレビ番組とかね)、そして税金の納める先とそれにより得られる保障の由来などから僕らは知らずしらずのうちにナショナリティーが芽生えたり、あるいは植え付けられたりする。
この世に生まれ落ちたばかりの赤子は、実は純粋無垢な「人間」であって、「◯◯人」ではない。そういったナショナリティーはすべて後天的なものであり、だから、先天的日本人なんてものは実は存在しない。


そこで、タイトルの質問。
このブログを呼んでくれている方の多くは自分自身を日本人であると認識している人だと思うので、「自分はどうして日本人なのか?」「なぜ自分が日本人だと思うのか?」、少し考えてみてほしい。


日本国籍を持っているから?
なぜ、日本国籍を付与されたのか、さらにその先を考えてみたことがあるだろうか。
日本列島に生まれたから?
じゃあ、生まれ落ちた場所(さらには育った場所)が日本の領土の外だったら(例えば返還される前の沖縄生まれの人)日本人とは呼べないのだろうか。
父母・先祖が日本人だったから?
現行の「国籍法」による日本国籍の定義では正解かもしれない。日本は血統主義、身体を流れる血液によって定義される。でもさ、身体を流れる血なんて、輸血できるんだから、世界中皆一緒じゃん。
国籍なんて他の国籍を取得すれば喪失してしまう実はとても形式的なもの。


僕が言いたいことは、国籍の定義だとかそういう細かい法律の話ではない。
国というものは誰かが勝手に定義した形式であって、人間はそんな形式には本質的にはとらわれていない、とらわれるべきではない存在なのではないかと思っているということ。


もちろん国家という枠を取り外すなんていうことは、非常に大変な作業で、僕らが生きている間にできることではない。でも、人間として難しいことではないと僕は感じる。大切な人を思う気持ちを、肌の色、宗教、言語、思想、出生地が違う人々に抱くことができればオッケー。
きっとそれだけで、
「あれ、国ってよくわからん形式に固執して怒ったり叫んだりしてなんかかっこ悪かったね、ごめんごめん」 
って世界中の人が思う日がいつか来る、来てほしいと僕は思う。


2012年のノーベル平和賞で『EU』が受賞したとき、僕はとても感動してメッセージを綴ったりした。(→Dear my friends from/in Europe,
『EU』という枠組みは問題だらけではあったけれど、「国」という形式を超えた新たな一歩、人類の進歩だと思っていたから。今回のUKのEU離脱は、そんな理想と逆行する動きで、僕はとても悲しい。


でも、あらためて人間と国について思いを巡らせる良いきっかけを得た。少し「日本人」というものに固執しすぎていた自分の立ち位置を、「地球人」に寄せるきっかけになった。(→「日本を勉強しようと思い立った」


「国なんて形式はさ、どうでもいいじゃん。俺たちみんな地球人なんだし。」
そうやって話しながら肩組み合って、酒飲んで、歌って、踊って、互いの文化を尊重して、平和に生きる。
そんな姿を究極の理想形として、心のなかに宿しておきたい。



7/04/2016

"LIFE!", 「人生の真髄」について

映画を見ました。

「LIFE!」(原題:The Secret Life of Walter Mitty)


2014年日本公開の映画、以前に予告編を見て、きっと自分の好きなジャンルの映画だろうなぁ見たいなぁと思い続けていて、やっと見ることができた。そして想像通り、自分自身の心に刺さる映画でした。

「LIFE」は僕もそのロゴに見覚えがあるアメリカの雑誌。1936年から2007年まで刊行され、その表紙に代表される素晴らしい写真を使用し、アメリカの思想・政治・外交を世界に魅力的に伝える「グラフ雑誌」であったという。(出展:Wikipedia-ライフ(雑誌)
2007年に刊行を終了、現在はオンラインに移行している。(→LIFE | TIME

映画はその移行期を描いているようで、体制の変更、社員の首切り、いけ好かない再編担当者を前にして、主人公である冴えないサラリーマン、LIFE社の写真ネガ管理部のWalter Mittyが最終号の表紙となる「25番」のネガとその撮影者であるカメラマンを探すというストーリー。

この映画はコメディタッチになっていて、主人公の妄想が随所にはいってくる。
笑い要素も多いのだけれど、芯に据えられていつのは以下の「LIFE」誌のモットー。
「To see the world,
Things dangerous to come to,
To see behind walls,
To draw closer,
To find each other and to feel.
That is the purpose of life.」 
「世界を見よう
危険でも立ち向かおう
壁の裏側を覗こう
もっと近づこう
もっとお互いを知ろう
そして感じよう
それが人生の目的だから」 
この言葉を、純粋に多くの人に伝えたい、広げたい。撮影者達や原作者はそんな心意気を抱いてこの映画の作成に臨んだように思われる。

旅、写真、冒険、雑誌、ジャーナル、絶景、自然…
一歩を踏み出すことで得られるものの素晴らしさ(あと、少しの痛み、悲しさ、孤独)を知り、それを心に届けてくれる/とどめてくれるツール達を愛してやまない人たちにとって、この映画はきっと心に残るものだと思う。
映画のキーワードであり、最後のオチにもつながっているように僕には思える言葉、"Quintessence of Life", 「人生の真髄」。
何が「人生の真髄」であるかについての素晴らしい模範解答を提示してくれる作品でもある。

是非、見てみてください。

そして旅について、人生について、話しましょう。
To be a man is to be responsible: to be ashamed of miseries you did not cause; to be proud of your comrades' victories; to be aware, when
setting one stone, that you are building a world.
−Antoine de Saint Exupéry

4/01/2016

社会人2年目、三現主義、挑戦する姿勢

社会人生活の1年目が終わり、今日から2年目となりました。


1年間、エンジニアとして必要な知識を学ぶ座学と天然ガス生産の現場・LNG受け入れ基地でのOJTが続いた。お金を生み出すような仕事はほとんど行わなかったけれど、振り返ってみれば、昨年の今頃は知り得なかった様々な知識・経験を積むことができた。

もっと実務に携わりたいなぁと少し腐っていた時期もあったし、これが自分自身の描いていた社会人像なのだろうか?と考えた時期もあった。
けれど、お金をもらいながら学ばせてもらえている環境に感謝して、積極的に学ぶ姿勢を保ち続けようと努力することができたように思う。
残り少しのOJT期間もこの気持を抱き続けていきたい。


先日、5月以降の配属に関する面談があった。
専門はどうするか、勤務地はどこを希望するか、中長期的にどのように仕事に携わりたいか…。事務系であっても技術系であっても、どのような会社であっても、人事面談で聞かれることに大きな違いはないと思う。

面談に臨んで、思い出した言葉が2つある。

1つは、僕の会社の技術系の役員さんが入社後に伝えてくれた言葉、「三現主義」。
「三現主義」とはトヨタやホンダなどのものづくり企業が実践している考え方であり、
  1. 現場
  2. 現物
  3. 現実
の頭文字からとったもの。
机上の空論ではなく、実際に「現場」に赴き、「現物」を確認し、「現実」を認識した上で問題解決を図る
そんな考え方や行動の仕方。

僕は大学院を出て、工学の修士を得ているけれど、圧倒的に経験値が足りない。(さらに言えば「工学」に関する知識も足りない)
学歴があるぶん頭でっかちになって、実際の現場を見もせず机上の空論を振りかざしてばかり。無意味な提案をする。現場に迷惑をかける。
このままOJT研修を終えて、再びスーツを来て、デスクワーク中心の生活に戻ってしまったらいずれそんな嫌な先輩・上司に自分がなってしまうように思えた。
そうなりたくはなかった。

もう1つは、大学院のときに受講した「技術系経営幹部講話」という講義の中での言葉。
この授業は技術系のバックグラウンドを有した経営幹部が、自身のキャリアアップの跡をたどりながら、それぞれのレベルでの目標の立て方や課題への取り組み方などを教授する科目。
様々な大企業の経営幹部の方々の話の中で、印象に残ったある企業の社長の言葉。
「私は、なるべく本社から離れた現場で仕事がしたかったんですよ。ふりかえると、田舎の工場長だった時代が一番楽しかったですね。本社のうるさいルールに縛られずに、色々なことに挑戦できた。失敗しても本社の権力から離れていたから許されたことも多かった。だから若いあなた達にも、工場長を目指してたくさん失敗してほしい(笑)」
ひょうひょうと話すその姿には威圧的な雰囲気はなく、人を引き付ける魅力があった。
そうなりたいと思った。


2つの言葉を思い返しながら、面談で希望を伝えた。
都会の綺麗なオフィスでの業務や、海外出張・勤務に憧れる気持ちもある。
けれど、若いのだからなるべく現場に近い場所で経験値を積みたい。
泥臭く仕事をしてみたい。

「三現主義」と「挑戦・失敗する姿勢」を常に持ち続け、いざ2年目。


3/24/2016

「倫理と科学」

卒業した大学のOB/OGに届くメールに、心に残る随想が寄稿されていた。
本文中に出てくる小貫天先生は、僕の指導教授の恩師でもある。
「倫理と技術」について同様の言葉を先生から飲み会の席で伺ったことがある。

科学技術の進歩を、人を殺める道具の進化を例にして考えてみる。
投石から始まり、弓矢、刀、鉄砲、爆弾、核兵器、化学兵器…より残虐性を増し、より多くの人を殺傷する能力を高めるようになっていく。
これらは科学技術の進歩によるものであり、ほぼ不可逆的なものである。
だれも弓矢や刀という古い技術を、運動エネルギーを用いようとはしない。

しかし、それを扱う人間はどうだろう。
弓矢を用いて争っていた人々と比べて、現代に生きる僕たちは進化しているのだろうか。
一瞬の感情の昂ぶりを抑えるだけの道徳心を、僕たちは涵養してきているのだろうか。
他者を思いやる気持ちを、僕たちは広く共有できているのだろうか。
下のエッセーにあるとおり、僕ら人間の倫理・道徳は科学技術とは異なり蓄積されない。

「あいつムカつくな、やっつけてやろうぜ」
そんな気持ちから振り下ろした腕によって、石が投げられる時代から、ミサイルが飛び交う時代を僕らは暮らしているのだ。

僕らが優先的に行わなければならないのは、テストで良い点数を叩き出す公式を覚えることや大金を稼ぐノウハウを蓄積することではなく、道徳心を磨くことなのではないだろうか。
無慈悲なテロのニュースを見るたびにそんなことを、ふと考える。


以下に、全文を引用させて頂きます。
矢幡明樹様(1964年電気工学科卒)
「倫理と技術」 
 もう随分昔の話になるが、私は大学院時代の恩師(小貫天先生)の最終講義に行って、非常に感銘を受けた話を聴くことができた。その恩師も、「実はこの話は大学時代に高木純一先生から聴いた」と言われていた。私も大学の教壇に立っていたときに学生にしばしばこの話をした。この話の主旨は次のようなものである。 
 「技術は蓄積であり、ある人が発明・発見・開発した技術を基礎として次の人が成果を積み重ねるので、どんどん進歩していく。しかし、倫理とか道徳というものは個人に属すものであって、その人が亡くなれば、その人の倫理観とか道徳観は無くなってしまい、積み重ねができない」 私なりの理解も含めて、もう少し話を展開して見る。 
 人間の行動原理は「本能」、「感情」、「利害」がベースとなり、それに「倫理・道徳」と「社会的制度・慣習」が影響を及ぼしている、と言ってよいのではなかろうか。「倫理・道徳」は「利害」とは無関係に、人を自由意志による社会的行動に導く。「社会的制度・慣習」には、刑罰・報償などの実際的な損得で行動を規制・誘導する「法律」等と、天国・地獄やご利益(りやく)・罰(ばち)などの抽象的な損得で行動を規制・誘導する「宗教」が考えられるが、行動に影響を与える要素としては「利害」の下位の要素としてもよい。 
 さて、「倫理・道徳」は社会において蓄積されて進歩していくものであろうか。教育などによって作られる社会全体の道徳的規範というものはあろう。その規範は時代や民族・文化によって異なったものになるが、現代人が昔の人より道徳的に優れているとは決して言えない。法律を厳しくして、反道徳行為を少なくなったとしても道徳観が進歩した訳ではない。親の生活態度が子供に影響を与えることはあるが、親が道徳的に優れていても子供がそうなるとは限らない。人は育つ環境や教育などの社会の影響を受けて、「倫理観・道徳観」を生まれたときから自分の中に育てていく。 
 一方、技術は過去の成果を基礎として進歩していく。技術の進歩は一方向性で、退歩することはない。公害の原因となるような好ましくない技術もあるが、そういう技術は使われなくなるか、それを克服する新しい技術が出てくるだけで、技術が退歩する訳ではない。 
 問題は、限りなく進歩を続ける「技術」を扱う人間の「倫理・道徳」の進歩は本質的に期待できないことである。つまり、一人の不心得者の「技術」の悪意の使用により、世界が破滅や破綻するような可能性がどんどん増えていくことであり、それを止める手立ては残念ながら見あたらない。理工系人間は社会に対して大きな責任を負っているのである。 
以 上

3/13/2016

僕の3.11

東日本大震災から5年。
職場では弔意を表す半旗が掲げられ、2時46分には1分間の黙祷が捧げられた。
5年間、長かったような、短かったような。
1分間、長かったような、短かったような。
時間は流れていく。

職場で、同期と、地震があったとき何をしていた?と雑談をした。
大学にいた人、部屋にいた人、旅行をしていた人…。
みんなそれぞれの3.11を体験し、それをしっかりと心に刻んでいるようだった。
「東日本大震災が発生した時、俺は留学先で友達と一緒に飲み歩いていたんだよね」
5年前の、ある1日の記憶。
一昨日の夕食ですら言えないのに、覚えていないのに、僕らはきっと3.11の記憶を生涯にわたり語り続けるだろう。
恋人に、友人に、子供に、同僚に、孫に。

5年が経ち、僕の記憶も風化をはじめている。
10年後、僕は子供に当時の記憶をしっかりと伝えられるだろうか。
20年後、僕は部下に記憶を語れるだろうか。
30年後、40年後、僕は子供が好きになった人にうるさい親父として喋れるだろうか。
50年後、60年後、僕は孫に何かを伝えられるだろうか。

僕の3.11を思い出せるうちに書いて残しておこうと思った。


5年前の2011年3月、僕は2010年8月から始まった交換留学でアメリカ・サンフランシスコにいた。
日本時間の3月11日金曜日2時46分は、米西海岸の現地時間では3月10日木曜日21時46分。毎週木曜日の夜、世界各国から集まった留学生は"Thirsty(Thursday) Night"と題してサンフランシスコの街中のバーを飲み歩くイベントを開催していた。
その実行委員の一人であった僕は、夜の22時頃にそのバーに向かっていた。ヨーロッパ系が多い留学生団体の飲み会は、毎回スタートが21時前後、参加者はバラバラの時間にバーに集まり、思い思いのままに飲み語るという緩い集まりだった。



その日のThirsty Nightは、CIRCAというマリーナディストリクトにあるおしゃれなレストラン&バーで企画されていた。留学生グループのFacebookページ(まだ、残っていた。懐かしい。)で、企画者のDanaeが次のようなポストをしていた。


アメリカのバーは年齢確認が厳しい。
合法的にお酒が飲める21歳以上であることをパスポートや免許証で見せなければバーへの入場すら断られる。しかし、CIRCAはレストランでもあるので、当日は18歳以上であれば入場できるはずだとDanaeは話していた。

18歳以上ならば普段は行けないメンバーも参加できる!と、僕はアジア系の留学生に参加を呼びかけた。そして、僕自身は留学仲間で親友の恭平と、彼のアメリカ人の彼女を誘った。
二人とも18歳以上21歳未満であり、バーへ潜り込むのに毎回苦労していた。
「今日は一緒にバーで過ごせる!楽しもう!」
僕ら3人はDivisadero St.にある恭平の家に集まり、軽く飲んで、21時過ぎに夜遊びに向かった。

バスの22番に乗り北へ向かい、確か降りるバス停を間違えて、Fillmore St.の急な坂を歩いている時に、友達の彼女がiPhoneを見ながらこういった。
「竜之介、恭平、日本で地震があったみたいだよ」
僕も恭平も、インターネットが使えるようなスマートフォンは持っていなかった。
「日本では地震はよくあるんだよ、気にしなくていい。それよりも飲み会に遅れすぎた、急ごう」
CIRCAに到着したのは22時頃だったと思う。
店の前ではアジア系の留学生が集まっており、なにやらもめていた。
「18歳以上でも入れるって言われて来たのに、キックアウトされた!入れてもらえない!」
CIRCAからはダンスミュージックが漏れ聞こえ、中はクラブのような雰囲気になっていることがわかった。入り口に立つIDチェックをする人にパスポートを見せ、僕は中へ入ってDanaeを探した。彼女は留学生達とフロアで踊っていた。
「ごめんなさい、このお店も夜は21歳以上だったみたい」
酔っ払った彼女はそう言い捨て、踊りに戻った。僕は外へ出て、アジア系の留学生たちと一緒に来た友人にその旨を伝えた。アジア系の留学生は呆れて帰り、僕も、恭平と彼女をその場に残すわけにもいかず、ぶらぶらとマリーナディストリクトの夜の散歩をして帰ることにした。
おしゃれなカップケーキ屋、高級な紳士服や、閉店しているカフェを通り過ぎ夜風に吹かれていた。坂を登り帰りのバスを捕まえようとしていたら、再び恭平の彼女が行った。
「さっきの地震だけど、相当大きかったみたいだよ」 
胸が、ドキッと鳴った。
大きいってどれくらいだ、アメリカ人の彼女に地震の大きさの判断がつくのか、とにかく急いで家に帰ってインターネットで調べよう。僕はちょうど来たバスに乗り、家へ向かうことにした。


焦る気持ちを抱いてバスに揺られていたら、テキストメールが携帯に来た。
カメラ好き同士で仲良くなった、フィリピン系アメリカ人のJonからだった。
「竜之介!お前の家族は大丈夫か?東京が津波に襲われたみたいだぞ! 」
身体から血の気が引いていく感覚だった。東京が津波に襲われた?家族?いったいどうなっているのかわからず混乱した。
関東に実家がある留学友達のチャコに電話した。ニュースとか見てる、日本で地震があったって聞いたんだけど、と伝えたら、電話からは鳴き声とどなり声が飛んできた。
 「今更何言ってるんだよ!!日本が大変なことになってるよ!!東北で大地震があって、家族に連絡がとれないんだけどどうしよう…」
いつも明るく元気な彼女が、ボロボロに泣いていた。
僕もいよいよ気が気じゃなくなった。知りうる限りの日本人の友だちに電話をし、情報交換をしながら、家に駆け戻った。

部屋に着くやいなや、インターネットで日本のニュースを調べた。
東北地方で震度7という情報、大津波や火の海の映像が次々に入ってくる。
調べる手が震える。
目から涙が溢れてくる。
国際電話で実家に電話をかけたが、つながらない。しかし、Skypeで母さんを呼び出したらすぐに出てきた。東京もすごく揺れたけど、被害は東北のようにひどくはない。母さんと弟は無事、東京で働いている父さんとは携帯では連絡がとれないけれどきっと大丈夫であると聞いた。ひとまず、安心した。
Jonが伝えてくれた「東京で津波」は、どこかの海外ニュースが間違えて伝えた速報だった。

この時点で、サンフランシスコの時刻は深夜を回っていたと思う。
それから、朝まで、ひたすらパソコンの前でニュースを見続けた。ニュースから目が話せなかった。
津波、原発、被害状況、安否情報。
NHKやTBSが、ウェブサイト上でニュース番組を特別に放映していたために、アメリカにいながら日本の情報は逐一入ってきた。
弟からSkypeで連絡があり、父さんが無事だったこと、勤務場所から歩いて4時間ほどかけて家までたどり着いたことを教えてくれた。
アメリカのテレビニュースでも日本で起きた地震と津波と原発の映像が何度も流された。

外が明るくなってきたときに、家族が安全だった安心感からか、泣きつかれたからか、僕はパソコンの前で寝落ちた。
長い長い夜、僕の3.11はこのようにして終わった。

それからの日々は、日本で地震を経験した人とは少し違う日々を送ったかもしれない。
日本では大変なことが起きているけれど、何事も無く過ぎていく留学先の日々。
アメリカ人、留学生の友達からは「家族や友達は大丈夫だった?」と聞かれる日々。
津波の被害と原発の状況の情報「だけ」が暴力的なぐらいに眼と耳に入ってくる日々。
何かしなければと焦りながらも、遠いアメリカにいて何もできずにいる自分にもどかしく感じる日々。

日本人留学生団体が、キャンパスで募金活動を始めた。
僕ら交換留学生もそれとは別に、チャコとユキが中心となり日本食レストランでの募金活動を始めた。
授業には通常に出席した。留学生団体の仕事も努めた。
Candlelight Vigil、チャリティイベントにも参加した。
それでも、心が一つに定まらず、虚無感と意味のない焦りが僕を遅い、味のしない砂を噛みしめているような日々が続いた。
その時の気持ちを、拙い言葉で残していた。
(→2011年3月20日、All Over Coffee: 遠く離れたアメリカから出来ること。





それからは、徐々に、普段の生活へと戻っていった。

節電のために真っ暗になった東京の夜や、企業が広告を自粛したために流れ続けたACのテレビCM、地震速報の音が携帯から鳴り響いた日々や、コンビニから品物がなくなったことは、後から家族や友達から聞かされて知った。
留学を終え、バックパック旅を終え、東京に帰ってきたのは震災から6ヶ月後の2011年10月。東京の街はほとんど元の姿を取り戻していた。


以上が、僕の3.11と、その後の日々。
特別なドラマが有ったわけでもない、普通の一般人である僕が経験した震災の日とその後の日々の出来事。

5年が経過した。
震災の風化が、メディアで盛んに叫ばれている。

5年前、僕はブログにこんなことを書いていた。(→All Over Coffee:Consulate-Genaral of Japan
復興活動の最大の敵は、風評被害でも憎しみでもなく、無関心だ。
これからも続く復興活動に参加することはできなくても、常に情報を追い続け、現在の復興ステージを知り、関心を持ち続け、忘れる事のないようにしていきたい。
風化をすこしでも食い止めるための、備忘録としたい。

3/10/2016

大切な人に薦めたい12冊の本

彼女から、本をおすすめされました。

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か


彼女が勤める会社の尊敬する先輩が薦めてくれた本だという。
会社の先輩、両親、親友、彼氏彼女、恩師…自分と深く関わりを持つ人から薦められた本というものには、様々なメッセージが込められている。
その本から得られる知識の他に、なぜ、大切な人がその本に感銘を受けたのか。
それを想像するだけでもきっと人生は豊かになる。

「おすすめの本のリストを作って教えて」と、彼女から言われました。
そういえば、本はたくさん読んでいるけれど、あまりおすすめとかはしていなかったかも。

大切な人に薦めたい本を思いつくがままにリストにしてみました。
また増えたら、追加するかも。
彼女だけではなく、その他の僕が大切だと思う人たちに読んでもらえたら嬉しいです。

  1. 人間の土地 (新潮文庫) サン=テグジュペリ (著), 堀口 大学 (翻訳)
  2. 愛するということ(紀伊國屋書店) エーリッヒ・フロム (著), Erich Fromm (原著), 鈴木 晶 (翻訳)
  3. 場所はいつも旅先だった(集英社文庫) 松浦弥太郎 (著)
  4. 坂の上の雲 (文春文庫) 司馬 遼太郎 (著)
  5. 幸福論 (岩波文庫) (著), Alain (原著), 神谷 幹夫 (翻訳)
  6. いかにして問題をとくか(丸善) G. ポリア (著), 柿内 賢信 (翻訳)
  7. 男の作法 (新潮文庫) 池波 正太郎 (著)
  8. 自分の小さな「箱」から脱出する方法(大和書房) アービンジャー インスティチュート (著), 金森 重樹 (著), 冨永 星 (著)
  9. アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア) パウロ コエーリョ (著), Paulo Coelho (原著), 山川 紘矢 (翻訳), 山川 亜希子 (翻訳)
  10. ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか(ダイヤモンド社) エイドリアン・J・スライウォツキー (著), 中川 治子 (翻訳)
  11. アメリカのデモクラシー (岩波文庫) トクヴィル (著), 松本 礼二 (翻訳)
  12. これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学(早川書房) マイケル・サンデル (著), Michael J. Sandel (原著), 鬼澤 忍 (翻訳)

1/12/2016

『ブリッジ・オブ・スパイ』

映画を見ました。
『ブリッジ・オブ・スパイ』


舞台は、アメリカとソ連が冷戦状態にあった1950年から1960年代。
アメリカ人弁護士、ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は保険分野の裁判を主に扱う実直な男。愛する妻と、子供達に囲まれ、一人の善良なアメリカ人として平凡な人生を歩んできた。

そんな彼のもとに、ソ連のスパイとしてアメリカ国内で囚われたルドルフ・アベル(マーク・ライランス)の弁護依頼が来る。核兵器を明日にでも撃ちかねない敵国のスパイであるアベルに対して、社会の趨勢は電気椅子による死刑を当然とする。ポーズとしての弁護を求められただけであるドノヴァンは、しかし、アベルを敵ではなく一人の依頼人として、さらには一人の友人として受け入れ法廷で闘う。

数年後…今度は米国のスパイがソ連国内で捕らえられる。
アベルと米国人パイロット、さらに不運にも捕らえられた米国人学生との1対2の取引交渉に再度臨むドノヴァン。スパイ同士の架け橋(原題:"Bridge of Spies")となるべく、敵地東ベルリンに赴く。「ちょっと、釣りに行ってくるよ」家族にはただそう告げて。

2つの大国の運命と、スパイたちの命、時代に巻き込まれた一般市民の命が、彼の交渉にかかっている。交渉は上手くいくのか。核戦争は回避されるのか。ドノヴァンは愛する家族のもとに帰れるのか。そして小さな友情が芽生えたアベルはどうなるのか。
単なるスパイ映画ではない。少しのスリリングを含んだ、奥深いヒューマンドラマ。



僕は1989年に生まれた。
映画に登場する、冷戦の象徴とされるベルリンの壁が崩壊した年である。だから、「冷戦」というものが何かを実体験としては知らない。アメリカとソ連がぶつけあっていたイデオロギーのこと、東ベルリンと西ベルリンの人々を隔てた壁の意味を、核に怯える生活を、僕は知らずとも生きていける時代に生まれた。(そのぶん、昔はなかった新たな世界の問題に直面している)

映画ではそんな暗黒の時代の様子を映す。当時の雰囲気を捉えた映像表現は素晴らしい。それを見るだけでも、僕達の世代はこの映画を見る価値が有ると思う。
しかし、主題はただその悲惨さを映すことにはない。
イデオロギーを越えて貫かれるドノヴァンの「信念」。いがみ合う相手とでも、どんな極限状態においても、美しいと思える行動がある。感銘できる人間性がある。
騙しあい、疑いあい、憎しみあう。「スパイ」に象徴される冷戦時代の不安定な存在の上にかけられたドノヴァンという「ブリッジ」の偉大さを証明すること、これこそがこの映画の主題であり、それが証明されるから人生は素晴らしいのだと思える。

トレイラーではかなり暗ーい印象を持ち、さらに映画自体も冷戦時代が舞台であって明るいシーンは少ない。
それでも、見終わった後には心地よい清々しさが残る。
荒野に咲いた一輪の花の生命力に感動するような充足感が心に宿る。
"homecoming"(帰郷)と名付けられた映画音楽が、強く心に残った。

おすすめの映画です。
是非、見てみてください。

12/14/2015

『峠』司馬遼太郎

長岡での生活も残り10日間と少しになった。
年明けからは同じ新潟県内であるけれど、別の地へと移動する。
わずか4ヶ月の滞在であったけれど、僕にとっては人生ではじめての東京以外の「地方」と呼ばれる場所での生活、それがここ新潟県長岡市だった。


はじめてこの土地を歩いて、先ず目についたものが「雁木(がんぎ)づくり」。
雪国で、通りに面した軒からひさしを長く出して、その下を通路としたもの。
現代語ではアーケードとなるだろうか。
駅から自分が住む場所まで、ほぼ途切れることなく雁木づくりが連なっている。雨に濡れることなく生活ができた。そしてもうすぐ訪れる豪雪の時期には、日々の生活を守る手段となる。
東京や南国では見られない雪国の工夫のひとつ。



長岡という土地をもう少し知りたいと思い、何冊かの本を手にとった。
その中の1冊が、司馬遼太郎の『峠』
司馬作品には『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』といった大作があり、それらは以前に読んでいたけれど、『峠』については全く知らなかった。


時代は幕末。
峠の書き出しは、越後の城下、長岡の様子を書き出すことから始まる。
 雪が来る。
 もうそこまできている。あと十日もすれば北海から冬の雪がおし渡ってきて、この越後長岡の野も山も雪でうずめてしまうに違いない。
(毎年のことだ)
 まったく、毎年のことである。あきもせず季節はそれをくりかえしているし、人間も、雪の下で生きるための習慣をくりかえしている。
(中略)
 継之助は、町をあるいていた。
(北国は、損だ)
 とおもう。損である。冬も陽ざしの明るい西国ならばこういう無駄な働きや費えは要らないである。北国では、まち中こうまで働いても、たかが雪をよけるだけのことであり、それによって一文の得にもならない。
 が、この城下のひとびとは、深海の魚がことさらに水圧を感じないように、その自然の圧力のなかでにぎにぎしく生きている。この冬支度のばかばかしいばかりのはしゃぎかたはどうであろう。
季節としては、雪の到来間近のまさにこの時節の描写である。
それだけで、この本に惹かれた。
スタッドレスタイヤに変える、消雪用散水機のメンテナンスをする、スノーポールを立てる、木々に雪吊りを施す…時代は移り変わったが、人間が自然と相対する姿勢の根本的な部分に変化がないことを知る。
損で、面倒な冬支度だが、それを施す長岡の人々はどこかはしゃいでいるように感じられた。


ところどころに表される長岡のかつての描写もさることながら、この本の主人公、越後長岡藩の藩士・河合継之助のという人物が良かった。その生き様が美しかった。
幕末という乱世において、行動を第一義とした人。
時勢に流され「楽なほう」「得なほう」に与するのではなく、志を貫いた人。
先見の明をもって藩主と家臣の封建制が崩れ去ることを知りながらなお、「人は立場のなかで生きる」という信条を持ち、最後まで藩のために、侍として生きた人。


その結果は、ここ長岡を戊辰戦争・北越戦争に沈め、焼け野原にした。
竜馬や土方歳三のような明快な英雄ではない、幕末の「負け組」といっていい。
彼の墓碑が建てられたとき、長岡ではそれを破壊する人まででてきたと言う…。


人物を評するとき、事を為さんとするとき、何を判断基準とすればよいか。
「損得」は束の間のまやかし。
「好き嫌い」は感情のいたずら。
「正しい正しくない」はエゴのおしつけ。
河井継之助の生き方を知り、それは「美しさ」であるべきだと思った。
彼の生き方は、損をし、嫌われ、正しくなかったかもしれないが、ただひたすらに美しく、最後の瞬間までその美しさを貫いた。
日本的な感覚であると思うが、僕は彼の成し遂げたことではなく、その生き様に感動した。


長岡で生まれ、長岡のために生きた歴史上の偉人、河井継之助。
その人の思想と生き方に触れられる司馬遼太郎の『峠』という名作。
是非多くの人に読んでみてもらいたい。



12/05/2015

スペイン語と"Pepe" Mujica

スペイン語の勉強を始めました。

今年の初めに、卒業旅行として訪れた南アメリカ大陸。5週間という限られた期間であったが、ペルー、ボリビア、チリ、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンを見て回り、日本とも欧米社会とも異なる文化・価値観・歴史、問題点や美徳を見知った。
(→All Over Coffee:遥けき土地の基準


旅の最中、僕は適当なスペイン語を学び使いまわした。というのも、南米ではほとんど英語が通じなかったから。

「英語は世界語」。
世界中のどこにいても英語は少なからず通じるという思い込みを、アメリカやヨーロッパやアジアにいると感じてしまう。ヨーロッパ諸国、アジア各国は一つ一つの国に固有の言語を持つことが多い。タイ語、日本語、ドイツ語、中国語、イタリア語…などなど。僕らは隣接する国、繋がりの深い国の人々と交流を図るときには、自然と「他国の人とコミュニケーションを取るための言語」として英語が口から出てくる。それが当たり前となっている。

中南米における国際共通語はスペイン語。英語ではない。
南米で出会った人の多くには、右・左という非常に初歩的な英語も通じないことが多かった。
スペイン語だけで成り立つ大きな経済圏が中南米には広がっていて、他の国々の人と日頃接する必要がないせいか。あるいは、大国アメリカが勧める新自由主義や覇権主義に反抗する一種の政策なのか。その理由は定かではないし、様々な理由が国々人々の内にはあると思う。しかし、旅人として、南米諸国の英語に対する感度の低さには驚きと共に苦しめられ、そして新鮮さを感じた。英語を学ぶだけでは世界を知るには不十分であることを身をもって知り、それがスペイン語を学ぶモチベーションとなった。


スペイン語を学ぶ過程で、深く知りたい人がいる。得たい知見がある。
それは、ウルグアイの元大統領、「世界で最も貧乏な大統領」として有名になったムヒカ大統領が2012年のリオ会議で訴えた心構え。そのスピーチは多くの人の心を捉え、絵本にもなった。その本はアマゾンの2015年上半期「絵本・児童書」ランキングで、1位になっている。

スピーチの全文和訳が、リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)としてブログに掲載され、日本でも少し話題になり、書籍化もされている。
和訳文章は、転載自由との事だったので、このブログの最後に転載した。
是非、多くの人に読んでみてもらいたい。


2ヶ月前に公開されたドキュメンタリー映画「HUMAN」に関連したyoutube動画で、ムヒカ元大統領は彼の考えるあるべき社会、美徳を訴えかけている。
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。 
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか? 
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」 
人は物を買う時は、お金で買っていないのです。そのお金を貯めるための人生の裂いた時間で買っているのですよ

私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
深く、優しく、心理をついた言葉であると僕は思う。 
彼の言葉をスペイン語で直接理解できるように、いつかなるだろうか。
ゆっくりと、新たな言語と、その言葉が与えてくれる学びを、この身に吸収していきたいと思う。





ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)
会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。 
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか? 
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。 

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか? 
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。 
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか? 
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。 
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。 
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。 
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。 
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。 
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています 
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」 
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。 
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。 
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。 

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。 
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。 
そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。 
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。 
ありがとうございました。
参照元 Read the original here: http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/#ixzz3tRIwtbTt Under Creative Commons License: Attribution Non-Commercial Follow us: @hanabiweb on Twitter | hanabiweb on Facebook




10/07/2015

撮ることと描くこと

写真を撮ることと絵画を描くことについて。
2つの行為は、美しさに対する並行する行為であると知った。



先日、東京に帰った際に東京都美術館で開催中のモネ展を訪れた。
《印象派》という言葉を世に送り出したモネの《印象、日の出》が展示されており、開催初日にもかかわらず大盛況の様子であった。


《印象派》という絵画の流派について、中学生の頃の美術の授業で学び、ヨーロッパを旅しながら実際に見て回った。また、モネの連作である《睡蓮》や《ルーアン大聖堂》は国内外様々の美術館で巡りあった。
色彩の美しさ、自然光の尊重、描写される空気感などが印象派と言われる画家の作品に通じる部分である。写実的であることを良しとしていた19世紀中頃のサロンで、書きかけのように見えるモネらの作品は「印象的」と批評された。しかし、後の落選展や印象派による展覧会で彼らは徐々に人々からの支持を得ていき、現代にまで残る名声を得ることとなる。


印象派が市中の人々に高く評価されていく過程において、カメラの存在が影響するところは大きいと思う。
第一回の印象派展覧会の開催は1874年。
一方で、カメラが世に出回り始めたのは日本の歴史人物で写真が残されているのが明治時代を生きた人であることからもわかるように、1850年前後から。
「今日を持って絵画は死んだ」という台詞をフランスの画家ポール・ドラーシュはカメラの出現に際して放ったように、ただ写実的で緻密であることに関してカメラは絵画を凌駕した。


画家は、そして人々は、絵画に現実的ではない何かを求め始めた。
それが芸術家の主観的な感覚を表現する「印象派」「フォービズム」を生み評価した。そう考えてもおかしくないだろう。科学の台頭に、こころが抗う。科学・宗教に代表され、現代のデータ社会でも頻繁に出現するそんな対立構造が18世紀中頃の美術界にもあったように思える。
しかし、人間の「美しさ」に対する本質的な欲求に対して、カメラ・写真の出現は絵画に対する破壊的イノベーションとはならず、異なる手法で補完的・相補的に存在し続け現在に至っている。
撮ることと描くことは、美しさに向かう並行した行為であり続けている。


従来の写真はひたすら受動的な創作だった。瞬間を切り取るためにひたすら待ち続け、リアリティーを追い求めることが中心。
しかし、デジタル化と共にレタッチや合成といった作業が容易になり、写真に対しても絵画のように《印象》を与えることが可能となった。表現の幅は大きく広がった。
そして僕のように絵心がない人にとっても、行動と観察と瞬間を切り取る少しの時間があれば、心が捉えた感動を描くことができるようになった。
なんとも嬉しいことである。


昨日のこと。
信濃川を自転車で走っていると、突如一面のススキ畑に巡りあった。
夕日に照らされ、穂は輝き、金風に揺れ、ただただ美しかった。
そのときの《印象》を残したいと思った。大切な人に伝えたいと思った。
カメラを取り出し、印象が写るように設定をする。
露出を下げ、色温度を上げる。シャッタースピードは穂の輝きが写るように。
息を止めて静かにシャッターを切った。





…似たようなブログを、2年前にも書いていた。
この時はターナー展。季節はやはり秋。
秋は人の心を掻き立てるもの、らしい。
『ターナーの記憶色と空気感』