2/27/2013

それでも、僕は古本屋に通い続ける。

「紙の本はなくなってしまうのではないか。」

電子書籍が普及し始めてからそんな言葉をときたま聞くことがある。紙の本は、かさ張るし、燃えたら消失してしまうし、アクセシビリティが悪い。確かに、実物の本は電子書籍と比べると非常に不便な部分が多い。
我が家にも『自炊』(この言葉を知らない人は、既に遅れている?→wikipedia-自炊(電子書籍))するための器具が導入された。電子書籍などの出版事情に明るい父が、気がついたらAmazonで購入していた。裁断機とスキャナー。週末に昔読んでた漫画なんかをせっせと電子化している。トイレの前に設置されている漫画用の本棚がだんだんと空いてきた。


電子書籍反対派の意見は、その大方がtwitter上で拡散していた次の一言に集約されるのではないだろうか。

「紙でないというその一点において、電子書籍に価値を見出せない」
そう、紙ではないというのが電子書籍の最大の弱点。なんだか矛盾であるように感じられるけれど、結局はそういうことなのだろう。
本には2つの価値がある。1つは、その本に含まれている情報としての価値。もう1つには、その本が本であるという物質としての価値。twitterのコメントが意味するところはこの後者の価値が欠けていること。電子書籍は今はまだ物質的な価値観を作り出せていないのだ。


2つの価値の前者の価値は自明だろう。今まで出会った人の中で、何も記載されていない真っ白な本を読んでいると言う想像力豊かな人に、今のところ僕は出会ったことがない。(実はそんな本も発売されていて、そういえば昔、彼女にプレゼントしようと考えたことがあった→白い本/あなた自身が創る本です。…ちなみにこのリンク先のアマゾンのページに"Kindle化リクエスト"とあるのだが、一体どこの誰が白い本を電子化したがるのだろう。)
しかし、新しい「白い本」をカバンの中に入れて電車の中で読んでいるという人を僕は見たことがないけれど、存在してもおかしくないなあ…とも思っている。読書は、ページ上に書かれていることだけが全てじゃない。本を持つこと、それ自体が誰かを豊かにするからだ。それが、本が本であるという物質としての価値。


以前読んだ内田樹の著書『街場のメディア論』の中で「書棚の意味」という言葉について氏が語っていたことには、書棚に並べられた本というのは読みたい本だけでなく自分がこれから読みたい本、あるいは「俺はこんな本を読んでる人間なんだぞ!」といったような理想我を他人に見せ示すための役割も担っているという。本が本であるという物質としての価値もこの範ちゅうだろう。僕にも読んだ本を見せびらかしたいエゴがあり、その結果はこのブログをPCブラウザで見て頂いてる方は御存知の通り、僕の仮装本棚をブログ上に表示するようにしている。
大学教授の部屋で、例えば、テレビのアナウンサーがインタビューをするときには、意図的にその背景には大量の関連図書が積まれた本棚が選ばれる。そこには、「この教授はこんなにもたくさんの本を読んで専門家なんですよ」といったような「書棚の意味」や、本が本であるという物質としての価値が発揮されている。
「教授、ではインタビューを…あれ、お読みの専門書籍はどちらでしょう?」
「あぁ、全て電子化したよ。これで研究室が広くなったし、管理が楽になった。」
「…」
インタビュアーの感じる虚しさそれこそが物質としての本の価値である。


さて、最後にもう一つ、僕の考える本の価値を追加して終えたい。
それは思いがけない出会いのもたらすドキドキ感や、山ほど積まれた本の中に身を置いた時に感じられるあの圧倒感である。僕は週に一度は必ず図書館、大型書店、古本屋に立ち寄っては本を「仕入れ」るのだけれど、その度に、「あぁ、この世にはこんなにたくさん本があるんだ…」と圧倒される。また、その中で目当ての本を探している最中に、ふと、目当ての本とは全く違ったものを手に取る。裏表紙の説明、まえがきや目次などに目を通すと、それは以前に凄く興味のある内容だったけれど忘れていたことや、ブログにもtwitterにもfacebookにもAmazonの購入履歴にも残されていないまだ言語化されていない大切な感情であったりする。それは、一目惚れや恋に落ちるときの感覚や、数度しか会ったことがないのに心通じる友人に対する思いと同じであるように感じる。そういった感情が含有している価値は、リコメンド機能や欲しい本をその場ですぐに買えるという電子書籍には付加しづらいものだろう。


電子書籍がビジネス的にもアクセシビリティにも優れていることは認める。自炊して、電子化も進めていくと思う。
それでも、僕は古本屋に通い続ける。
思いもよらない本と出会い、恋に落ちるために。


以前に書いた本に関するエントリー
「本」と、それにまつわる様々な「ストーリー」
City Lights Bookstore


2/26/2013

韓国の国花、槿から思うこと

2月26日付け朝日新聞朝刊の天声人語より一部を抜粋。
昨日就任された韓国初の女性大統領朴槿恵の名前の中にある花について。

 ひとつの花を眺める心も、国によって違う。朝に開いて夕方しおれる槿(むくげ)は、日本では儚さの象徵とされる。だが、お隣の韓国の人々は、苦難をしのいで発展していく民族や国の姿をこの花に託した。知られるように国花である。
 一輪一輪は短命でも、一つの木として見れば次々に咲いて秋まで果てることがない。だから韓国では無槿花(ムグンファ)と呼ぶ。彼の国の朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領は、長女の名前にその「槿」を入れた。時点と首っ引きで選んだそうだ。きのう就任した朴槿恵(パク・クネ)大統領(61)である。
(中略)
 日韓関係は呪文のように「未来思考」が言われながら、思うように進まない。暖まったかと思えば、寒の戻りの冷え込みが繰り返されてきた。歴史と領土の問題で、新大統領も甘い友ではありえまい。
 槿に戻れば、韓国の人は日本の植民地支配をしのいだ歴史を、この花に重ねたとも聞く。海峡の波は高い。行き交う言葉が日韓新政権のもとで未来に向くか、どうか。よく見守りたい。

隣国・韓国の国花が槿であり、リーダーとなる朴槿恵大統領の名前の中にその花が入っていることを初めて知った。槿とはどんな花なのか。調べてみた。

槿(Hibiscus Syriacus)
wikipedeia-「槿」より。
 学名にもあるようにハイビスカス属の花のようで、なるほど大きな5片の花びらと真ん中の特徴的な花冠などの形状は南国に咲く真っ赤なハイビスカスと似ている。けれど、色合いと佇まいから感じられるものはアジアの風情。栄枯盛衰。儒教文化のおしとやかさだろうか。


日本の国花は桜と菊である。皇室の象徵としての意味合いが強い菊の花はギラつていていて、「国花である!」と自他に見せるびらかすにはなんとなく気が引けてしまう。他方の桜は、嫌いだという日本人はあまりいない。名実ともに国花としての地位を築いているようである。天気予報に桜前線なる桜の北上行進具合が日々告げられるようになる日も近い。今週末はもう、3月。


他国の国花も調べてみると、アメリカは「バラ」と「セイヨウオダマキ」、中国は「牡丹」と「梅」、フランスは「ユリ」、スペインは「カーネーション」に「ザクロ」、などなど。国花の選定方法に決まりはないため、国によってはしっかりと定まっていなかったり周知の事実や人気投票で自然発生的に決まった花もあるのだとか。それでも、なんとなく、国花からその国の人柄も想像させられる。


天声人語の書き出しにもあるように、槿の花に対する印象は日本と韓国で少し異なるようだ。同様にして日本の国花である桜の感じ方も日本人と韓国人、その他の国出身の人では異なるだろう。「桜前線」がテレビ放送されるなんておかしいだろ!と、もしかしたら他国の人には不思議がられている日本独自の文化のひとつかもしれない。先日書いた「美しさを判断の基準にする」の中にあるように、美的感覚は人や国でそれぞれ異なる。それが個性をつくる。日本の感性を韓国に押し付けず、また韓国の感性を否定せず、お互いに認め合い競い合い成長しあえる日韓関係になれればいいと願う。国同士も、僕と僕の韓国人の友人とも。


真っ赤なバラやカーネーションでも、見栄えのするユリでも牡丹でもない、ほのかな色と儚さに美と盛衰を見て取れるデリケートな感性を心の奥で日本と韓国は共有している気がする。留学中も、ヨーロッパからきた白人達のなかで目に見えない圧迫感や劣等感を感じる中、一緒にいて心通じ安心することができたのは韓国人の友達だった。そのときの感性をこれからも忘れずに過ごしていきたい。


木槿の見頃は6月から10月。今年は桜咲き誇り散った後にも気になる花の存在ができた。嬉しいことである。

2/22/2013

美しさを判断の基準にする

サッカーの元日本代表監督を勤めた岡田武史氏が、インタビューで答えていた言葉が心に残っている。
ある人がこんなことを書いていた。人間の価値判断の基準は経済状況によって変わるのだそうだ。経済が伸びているとき、人は損か得かで物事の価値を推し量る。経済が頂点に達すると、今度は好きか嫌いかで判断する。そして、経済が落ち始めると正しいか、正しくないか、で決めるという。そして、そのとき、争いが起きる。正しいか、正しくないか、という基準は人に押しつけたくなるものだ。例えば、米国にとって正しいことは、中国にとって正しいとは限らない。でも、僕はこの話を読んだとき、思った。美しいか、美しくないか。そういう価値観を持つべきじゃないかと。 
ある人が「あの人は美しいですね」と言う。言われた人は「そうですか?」と思ったりする。でも、同時に「ああ、この人はこういう人を美しいと思うのか」と納得もする。そう、美しさは主観の問題。美しさを判断基準にすれば、相手の違いを受け入れることができるのだ。私はこの美しいか、美しくないか、という価値観を大事にしている。大きな決断をする前には「自分の生き方は美しいか?」と自分に問いかけるようにしている。
2月10日付け日本経済新聞web版コラム『岡田武史の「中国細見」』より抜粋)

損か得かではなく、好き嫌いではなく、正しいか正しくないかではなく、美しさを判断の基準にしよう。そういった考え方。岡田監督は「美しさ」と一言で済ませたけれど、美しさにも色々種類があって、大分すると2つの美しさで表せると思う。
「個性の美しさ」と「当然の美しさ」だ。


「個性の美しさ」
インタビューの中で岡田監督が述べているように、美しさとは主観の問題。だから、みんな違ってみんないい。これは「個性」という言葉に置き換えられる。人とは違った考え方をしていて、それが当人にとっては当たり前であるかのような生き方をしている、内面的な美しさやユニークさ=個性なのである。
集団社会で生まれ育った僕は、主張をすることが苦手だった。前は、「気がついてるけど俺は言わないだけだよ」なんてきどったような、高みの見物をしているような、そんな心持でいたのだけれど、その実は意見を発することを怖がっていたりバカが露見するのを恐れているだけだった。稚拙でもいいから、自分が美しいと思うことを決め、それを表現することが大事なのだと最近になってやっと気がついた。そして自分自身の個性を深めるために必要な知識を蓄えようとして、必要な経験を積むように行動できるようになってきた。そんな気がする。自分自身の個性という美しさを判断基準にすることで、まだまだブレブレだけれど、徐々にその振れ幅が小さくなってきているように感じる。


「当然の美しさ」
個性だけを判断基準にしていると、ただの迷惑人間や社会不適合人間が出来上がってしまうこともある。そこで必要なのが、集団の中での美しさ。同じコミュニティの中で生まれ育ったからこそ分かち合える普遍的な美しさも存在して、それらを明確にすることも大事。

人間に生まれたから美しいと思えるもの。
和音の音色の心地よさ、笑顔を幸せだと思える感情、黄金比。
地球に生まれたから美しいと思えるもの。
月をみて物思いに耽ること、太陽光のあたたかさ、満点の星空。
日本に生まれたから美しいと思えるもの。
桜散るところの無常感、礼節わきまえるところ、四季の移ろい。

これらの圧倒的多数が美しいと思えるものもまた、自分自身がそれらから大きく道外れていたときに戻るべきだと気付かされる大切な判断基準となりうる。(もちろん、これらから離れていてもそれは個性という美しさになる。その場合、その離れたシチュエーションが当然となった姿をイメージしてみて、それが果たして本当に美しいものなのかと一考すべき。また、ルールを破ることと個性的は根本的に異なる)


この2つの美しさを判断基準にする。2つとも。
「当然の美しさ」だけに心奪われていれば、きっと「カワイイ」や「イイネ」を連呼する没個性人間になる。「いい人」として慕われて、当たり障りのない友人はたくさんできるかもしれない。ただそうなると、心底からなんでも語り合える親友や、魂がふれあう熱い絆は期待できないじゃないかと思う。
個性の美しさを追い求めるのは素晴らしいと思う。しかし時にはそれが周囲と一致しているかどうかを自ら確認する努力が必要。定められた枠の中(今はグローバルな時代、日本という枠の中でとどまる必要はない)からはみ出ていないか、他人と違うことが「カッコイイ」ことだと勘違いしていないか、と。


どんな生き方が美しいのか、美しくないと思うのかと自問自答する。そして、その答えをこれが俺の個性だぞ、と、自分自身に言い聞かせながら誰かとすり合わせてみせたりする。

写真を撮るときにピースをするのは美しくないと僕は思う。
(→なぜ、みんな、ピースをするのか。
人々がマイノリティに対して寛容な社会が美しいと僕は思う。
(→マイノリティであることはハンディなのか、ユニークなのか。
親切や感謝、挨拶といった感情が慣れ親しんだ個人だけで消費されるのは美しくないと僕は思う。
(→メルハバの数だけ心が軽くなってゆく
(→「親切量」の配分について考える

例えばそんなこと。


美しさを判断基準に。
そう考えられることが美しいと言えるような岡田監督のような人間性豊かな人になるために、しっかり学び、しっかり生きる。