10/10/2012

この世に万能なんてものはないのだから。

今朝の朝日新聞オピニオン面、天野祐吉さんのコラムCM天気図より、一部を抜粋。
 あわやのところで車が止まる。呼び方はいろいろあるようだが、何かにぶつかりそうになった時、自動的にブレーキが働くという車のCMが目立つ。
(中略)スピードを競いあう競争から安全性を高め合う競争へ、車の業界が変わっていくのは歓迎だが、その一方で便利になればなるほど問題が増えていくということだってある。安全性が増したことで運転がお粗末になったりすることがないとは言えないだろう。
 車に限らない。小学校の教室に備え付けた鉛筆削りが、子供たちから「指で考える」という大切な脳作業の機会を奪ってしまった、と花森安治さんが言ったように、便利になるということはプラスに比例してマイナス面も増えていくということだ。(後略)


山中教授がノーベル化学賞を受賞したというニュースや記事が氾濫していた昨日、この記事が伝えるメッセージと全く同じことを漠然と考えていた。


iPS細胞。皮膚などの細胞を操作し、心臓や神経など身体のさまざまな細胞になれる能力をもたせた。1981年に作られたES細胞(胚性幹細胞)と同じく、さまざまな細胞になる「万能性」を持つけれど受精卵を壊して作るES細胞と違い、倫理的な問題を避けられる。将来の創薬、再生医療、難病解明に役立つ…そんな本当に素晴らしい功績と秘めたる可能性に日本中が浮き足立ったと思う。まだまだ実用化に向けては多くの課題は残るけれど、この研究が進むことで今まで救われなかったたくさんの人が救われる。難病が治る。医学の進歩は素晴らしい。そんなポジティブな雰囲気がメディアを包んだ。


僕も、このニュースは凄く嬉しかった。高校時代は生物が大好きで、細胞の授業が好きだったから「生命」という名前のつく現在の学部に進学した。今では全く異なる分野を専攻しており「生物」や「細胞」の勉強は全くしていなかったけれど、クローンとか細胞とかゲノム解析といった科学用語にはなんとなく敏感になって、記事をじっくり読んでしまったりする。
ただ、上のニュースを読んでいてひっかかった単語が一つだけあった。『万能性』。本当にiPS細胞は万能なのだろうか。そもそも、万能なんてものはこの世に存在しうるだろうか…


そんなことを考えていた昨日の夜、親友と飯を食べた。"マイノリティであることはハンディなのか、ユニークなのか。"でも紹介した、剛である。お互いの旅の報告会をして、毎度となった「彼女いないの?」「うん、いない」の会話のなかで、iPS細胞の話となった。その時に、剛が不意に言った。
「iPS細胞があれば、将来的には僕の耳は治るかもしれないんだよね。でも、そうやって治せるかどうかの選択があっても、今の僕は治すかわからないなぁ。耳が聞こえないというのが今では僕のアイデンティティとなっているから、それを失いたくないという気持ちもあるけど、例えば、誰かが僕の隣で助けを求めていてもそれに気づいてあげられないっていう不便さはやっぱり悲しいし。」


もしも僕が剛と出会っていなかったら、きっと、耳に不自由な人に対する理解とか、身体障害者に対する配慮とか、そういった意識や優しさは僕の中には芽生えなかったと思う。この感情は見方によれば単なるエゴだと言われるかもしれない。自分の利益だけを考えて、弱者や持たざる者をないがしろにする意見である、と。それでも、人間が自分自身の中から生まれてくる感情なんてものは限られていて、それでいてそれらは大抵ネガティブで悪いものとなることが多い。外部的要因―自分が生んだ子供の小ささや弱さ、親類の死、愛する人との関係、そして親友の持つ障害―こういったものがもたらしてくれる優しさとか意識の変化は、単なるエゴではとどまらず、結果的に多くの人を豊かにする大事な空気を作ると僕は思っている。


iPS細胞が完璧に臨床の場で使えるようになれば、身体障害者や難病に苦しむ人は激減するのろうか。それはきっと素晴らしいことなのだけれど、同時に、身近な人が障害者出会ったがゆえに生まれた「優しさ」「思いやり」、そんな明るい空気が弱まるのではないだろうか。
昨日の剛との会話で僕は違ったトピックではあるけれど「グレー化」ということに関して語っていた記憶があるのだけれど、これもその例の一つ。社会全体の雰囲気を色で表すとき、日本はどんどんグレーに向かっている。社会的マイノリティが黒点(これは決して、悪いという意味は含まれていない)であり、メジャリティーがその周りを覆いかこむ白、という図を思い浮かべると、白の白さは、黒があるからハイライトされる。自分自身が白であると認識することができる。しかしこの図から黒点や赤点や青点…そんなカラーがなくなってしまったらどうだろうか。白は自分自身が白いことに気がつくことなく、どんどんグレー化するのではないだろうか。


「便利になればなるほど問題が増えていくということだってある」
「便利になるということはプラスに比例してマイナス面も増えていくということ」
先に引用したコラムの中で、天野さんはこういった言葉を使う。これは車のセーフティ機能がもたらす運転マナーに関しても、iPS細胞がもたらすさまざまな医療革命に関しても言えると思う。便利になれば、問題は増える。そんなことを漠然と思っていたから、iPS細胞に対して用いられている「万能性」という言葉に引っかかったのだと思う。この世には万能なんてものはないのだから。


最後に…剛とiPS細胞の話の続き。
剛は、今の自分だったら、再生医療を受けるかどうかはわからないと言った。けれど、「じゃあもしも自分の子供が難聴だったり、足とか手とかがない状態で生まれて来て、再生医療で治せるのであればどうする?」という僕の意地悪な質問に対して、
「それは、治してあげるよ。小学校とか中学校で、僕は耳が聴こえないことで凄く悩んだし苦しかったから。そんな思いを自分の子供にはさせたくない。」
と、彼は答えた。彼が僕と出会う前までに経験したさまざまなことを想像して胸を締め付けられる思いだった。そしてそういったことまで思いやれる心の深さが自分にはまだないのだな、と認識させられた。
僕や彼やこれから生まれてくるたくさんの子供達のことを思って、iPS細胞やさまざまな医療が発展していくことを僕は願う。そこから「グレー化」や「倫理」という難しい問題が沢山発生してくるかもしれないけれど、それらはきっと新しい世代の子供達が必死になって考えて解決していくことなのだと思う。それがきっと人類の成長であり、文明の発展ということなんだろう…

そんなスケールの大きいことまで考えながら、涼しくなってきた東京の街を自転車で駆け抜け家路に向かった。

10/06/2012

10度だけネガティブな世界

ヒトの骨格や身体能力というものは、生活している環境に適応するためにゆっくりとゆっくりと変化する。
それをダーウィンは”進化”と読んだけれど、”退化”となることもある気がする。


長い旅からの帰り、成田空港から都心へ変える電車の中、同じ車両にのる人々をぼーっと見ていた。同じくどこかからの旅の帰り道出会ったのだろう、たくさんの人々がスーツケースやカバンを背負い、座席に座る。ビジネスマン風の人もいれば、キャピキャピとした女の子の集団もいる。しかし、する行動は同じ。うつむきがちにスマホを開いてそれを見つめている。液晶画面の向こう側でつながっている誰かに、「おかえり」の報告をしているのだろうか。


今日は電車にたくさん乗った。普段、自転車で行動することが多いので、駅で電車を待つ人を観察することはあまりない。何気なくホームに立つ人々を見てみると、みな直立不動の姿で電車を待っている。しかし、直立といっても真っ直ぐではない部分がある。首と右手。右手を少し持ち上げ携帯を支え、首を下にカクッと曲げて、携帯電話をのぞき込む。ほとんど全ての人が。電車の中でもやはり、首を下に向けて携帯を見つめている。
もしも携帯電話がなかったら…想像力を駆使して、周りの人の手から携帯電話だけを消してみる。みんな、なんだか、肩を落として足元を見つめているような格好である。少し悲しくなった。


スマホの普及、SNSの普及、それによって生じる様々な良いこと悪いことが研究され語られている。けれど、今日僕が気になったのは、首を少しだけ曲げて下を向く、うつむいた状態。そういった姿勢をする人が本当に多いなーということ。携帯を操るときにわざわざ液晶画面を目線の高さに持ってくる人はほとんどおらず、ましてや目線より高くする人は皆無であり、かならずうつむいた姿勢をとる。操る手が顔より下にあるのだから当然のことだろう。


携帯を操作するときに、どれくらいうつむいているのか。適当に360度のうちの10度、首の可動域が真上から真下までであるのならわずか1/18にあたるこの角度だけうつむいていると仮定してみる。人間がこの地球に生まれてから今までで、この僅か10度だけかもしれないけれど、首を曲げて視線を下に落としている時間を比較してみると、ここ数年でその長さは恐ろしいほど長くなってしまったと思う。太古の昔は誰かとコミュニケーションを取るときに相手の顔を見つめなければならなかった。自然に正眼に構えることになる。それが今は手のひらの上で行われるために、目線を落とさなければならない。


目線を下げる、見下す、足元を見る、頭を下げる、うつむく、目を伏せる…
多彩な日本語表現の中で、10度だけ首の角度を下げた様子を表したこういったものは、どれもこれもネガティブな印象を与える。そんな格好をしている人が今の時代には、世界には、溢れている。
携帯を持っているんだから仕方がない、その通りだが、手元がみえないだれかの後ろ姿からは、その人が何かに悩んで下をむいているのかどうか、ただ携帯を見つめているのか検討もつかない。20年前であれば、ホームの縁に立ち線路をじーーーーっと見つめるおじさんがいれば、「飛び込もうとしてるんじゃないだろうか…」なんて想像が後ろ姿からも察知できたかもしれないけれど、今では無理だろう。後ろに立つ誰かも、10度下を見ているのだから気付きようもない。


こんなにみんなが下を向く環境が多いのだから、次に生まれてくる僕らの子供たちは、もしかしたら少しだけ首の角度が曲がった状態で生まれてくるかもしれない。そしてこの環境がずーっと続けば、普段からみんなが少しだけうつむいている、10度だけネガティブな世界が広がってしまうかもしれない。
適応した結果だからそれは”進化”と呼ばれるのだろうか。僕達の子孫は、将来、
「いやー昔の人達は、携帯を見るためにわざわざ首を曲げなきゃ行かなかったなんて不便だねー」
なんて会話を、手のひらをみつめながら誰かと語り合っているのだろうか。
それを僕は”進化”とは呼べない。”退化”である気がしてならない。


チュニジアで流れる涙”という記事の中で語った通り、天を仰ぎ見てそこに存在する自然の美しさに気づいて、僕は本当に感動した。
そして今年の5月22日の金環日食の日にも、”鳥肌”で述べたように、僕はみんなが太陽を見上げているというその姿や、一体感に感動した。
ライブなんかでも、ドーム公演で座席からアーティストを見下ろすよりも、野外コンサートで目線を上げてステージを見るほうが、なんとなく熱い声援をかけやすい気がする。
気持ちが晴れて感動が生まれるのは、間違いなく、目線をあげたときのほうが多い。


10度だけネガティブな世界よりも、10度だけポジティブな世界を。
なんだか気分が落ち込んでいるときは、液晶画面の奥にいる誰かに助けを求めるのもよいけれど、単純に目線を上げてみてはどうだろう。根本的解決にはならないかもしれないけれど、少しだけ、10度だけ、気分が晴れる可能性がそこにはある。僕はそう思う。






時差ボケで眠れない真夜中に

旅から帰ってきてから、なんだかモヤモヤとした日々を過ごしている。
物凄くたくさんのこと、紛争のことから宗教のことまで、答えのないことを考え続けていたのだけれど、そういったことを考えるという行為すらなんだか無意味に感じてしまうような日本の平和さ。
専門は何を勉強しているのか、電気工学だ。だったらそれだけに集中して興味を持って勉強することが出来れば良いのだけれど、そうすることもできず、全く関係ない本を読んだり、美術を観に行ったり、新聞をじっくり読んだりして、世界という視点から物事を考えていたいという気持ちが収まらない。

"Think globally, act locally."

この有名な言葉を心に刻み込んで、興味を持ったり考えるフィールドは広く大きくして、実際に行動するのは自分の目の前にあることにしようと決心したのは留学を終えた直後の1年前。それを今までしっかりとやってきたつもりである。
しかし、それからthinkだけが暴走して無限の宇宙に向かい僕の頭を悩ませて、actに身が入らずthinkとのギャップが広がっていき焦燥感を感じさせる。

それは例えるならこんなイメージ。
大きな船にたくさんの人々と乗っていて北極点を目指す。気候、氷山の位置、他の船との関係…様々なことを気にかけながら船はゆっくりと北に、北に、すすんでいく。
しかし、その船の中のある一室の中で暮らしている僕は、共に生活する人々と円滑な船上ライフを送るために充てがわれた仕事をしっかりとこなす。掃除、電気機器の修理、誰かの退屈を笑わせて軽減させる、食事をつくる、本を書く、とか。そういったことをしている一人ひとりは、東西南北、全く別の方向に向かって活動している。でも僕らをのせる豪華客船なのか、戦艦なのか、タイタニックなのかわからないけれど、とにかく”日本”という名前の船は、北極点というゴールを目指している。凄くマクロに考えれば。
だから、僕自身というミクロな立場になって行動をおこすときには、自分のやりたいことをやって、目の前にあるできることをこなして、南に歩いてもいい。結果的にその行動は、自分が乗っている船の北上線路へのベクトルに転換されている…
だから安心しろ、船の行く先を知っていたりそれを考えるのは大事なのだけれど、船員の1人である自分がそれを全て知っている必要はなくて、自分の出来ることをすればいいんだ。

そんな姿がイメージできているのだけれど、生まれ持った僕の糞真面目さが、船上の客室の中でも北に向かって進まないといけないんじゃないかという気持ちを抱かせて、その気持を捨て切れない。どうしたものか。

旅の後半から、あまり深い眠りにつくことができずに、寝てても脳が活性化しているようで、変な夢をたくさんみたり訳のわからないアイデアがポンポン浮かんできたり。
そこに時差ボケもまじっているのか、妙に頭が冴えていて眠れない。
それでも不思議な事に、朝起きた時には比較的すっきりしているのだけれど。


こうやって思い悩んでいることもいつかはきっと忘れるのだろう。備忘録。再び寝ます。