8/10/2017

8月9日という特別な日

気がつくと夏の空になっていた。
入道雲が湧き立ち、立体的な青と白のコントラストをつくる。
坂の街・長崎では、そこに小高い山々と住宅地が重なる。
三方を山で囲まれた港町だから、平地のほとんどは商業地になっており、追いやられた住宅地は山頂に向かって広がっている。
石段の坂、その両側に墓地や家や教会がある。
人も、死者も、傾斜地に住み、それぞれの高さから世界で最も美しい港の1つといわれる長崎港を見下ろしている。


先月のこと。出張で広島・長崎を訪れて、そのまま週末を長崎で過ごした。
4年ほど前にも、この土地を訪れたことがあり、そのときも1人だった。
グラバー園、教会群、竜馬の道、造船所…数多くの観光名所を駆け足で巡ったけれど、4年前も今回も、やはり心に残ったのは戦争関連の史跡、平和公園や原爆資料館だった。
初夏、というよりはもう夏本番を思わせる陽ざしと暑さ。濃い緑に隠れて蝉がけたたましく鳴り響く。
72年前の夏、きっと同じように暑く気持ち良い日に、原爆は落ちた。
長崎を国際色豊かな港街ではなく、悲劇の街として世界に有名にさせた1日が、1945年8月9日だ。


8月9日は僕の誕生日であって、小さい頃から僕の特別な日は、日本社会の特別な日でもあった。
ただ、その特別さは未来永劫続くものなのだろうか。
歳を重ねるに連れて、誕生日という1日が本人にさえも、過ぎ去る光陰の単なる1日としか捕らえられなくなるようになってくる。
同じように原爆が落ちて何万という人々が亡くなった1日も、次第に人々の心から記憶が薄れ、その特別さは薄らいでいく。
「悲しみは時間が癒やしてくれるよ」
そんな言葉がある。これは真理だと思う。
けれど、時間に影響を受けるのは悲しみの専売特許というわけではない。

喜びも、悲しみも、誰かが生まれた日も、沢山の人が死んだ日も…
時間という大河の中において、過去の特別な日々というものはしだいに平面的にならされていくもののように思える。


お盆休み前の昨日、残る仕事がないように、少し遅くまで仕事をしていた。
誕生日であることをあまり意識することなく1日が終わろうとしていたけれど、友人から、家族から、LINEやFacebook越しに、
「おめでとう」
の言葉をもらい僕の8月9日は少し特別になった。
夜に見たニュース、今朝読んだ新聞で、今年も長崎市長による「長崎平和宣言」が取り上げられていた。少し強めのメッセージと共に。
⇒平成29年『長崎平和宣言』
⇒朝日新聞デジタル 長崎市長、平和宣言で政府批判 「姿勢理解できない」
日本という社会もまた、8月9日をとても特別な日として残そうと頑張っていた。


いつまでも、特別であったらいいなと思う。
たくさんの誕生日メッセージ、ありがとうございました。
You made my day special, thanks.





2/05/2017

「理解はできないが、受け入れる」

ダーウィンにて。
 
 
こちらにきてから、駐在員の先輩方にとてもお世話になっている。
 
異国での数ヶ月の滞在は、旅行者になるには少し長くて、しかし深く根を張り生きるには短い。
物理的にも精神的にも、今までのつながりを断ち切られた雰囲気が漂い(もともとつながりが多い方ではないのだけれど)、何となく寂しく心許ない。
 
そんなときに、特にローカルの人々が活気付く週末やオーストラリア・デーなどの祝日に、「◯◯やるから一緒にやろう」と声をかけてくれる先輩の声にホッとする。
 
 
そんな先輩の一人から頂いた1冊の本を、珍しく悪天候な休日に読んだ。
 
 
あらすじを、引用。
 
「理解はできないが、受け容れる」それがウェスト夫人の生き方だった。「私」が学生時代を過ごした英国の下宿には、女主人ウェスト夫人と、さまざまな人種や考え方の住人たちが暮らしていた。ウェスト夫人の強靱な博愛精神と、時代に左右されない生き方に触れて、「私」は日常を深く生き抜くということを、さらに自分に問い続ける――物語の生れる場所からの、著者初めてのエッセイ。
「西の魔女が死んだ」などが有名な梨木香歩さんがイギリスに滞在していた下宿先には、寛容なウエスト夫人を慕って(或いは善意につけこんで)、様々な人々が滞在する。
宗教、人種、地位、文化的社会的背景やステータス。。。
そんな人々に対するウェスト夫人の生き様は、この記事のタイトルに使った「理解はできないが、受け入れる」というもの。
 
物語のひとつ「トロントのリス」の中に、アスペルガー症候群のジョンとの話があり、心に残った。
アスペルガー症候群/自閉症に関して、客観的な説明を述べ、ジョンと著者との会話を中心に話が進む。
ジョンは化学者であり、理論的合理的な学問の中に自らの居場所を見つけている。
一方で彼は、普段の生活の様々な抽象的なこと、曖昧な表現、ルールが決まっていないものとの折り合いをつけることを苦手としている。
 
―昨日、ある集まりがあって、司会者に、じゃあ、ちょっと前に出てみてください、といわれたんでどんどん前に行って、その人の顔のすぐ目の前まで行ったんだ。そしたらみんな笑うんだよ。ジョークだと思ってるんだ。ところが僕ときたらなぜ笑われているのかわからないんだ。その人が驚いた顔をして、ハローというので、何か不都合なことをしたんだ、って分かったんだ。 
―そうか、どこまで前へ出てください、って相手は言ってないんだものね。どこからどこまでが、彼の考える妥当な「前」なのか、範囲を指定してなかったのだものね。普通は「彼」の前でなく、ぎりぎり「聴衆全体」の前ぐらいでいいのかもしれない。でも相手の目の真ん前だって、前には違いないんだもの。言ってないことを察するのは難しいね。
 
ジョンの、察することが難しいという、世間一般的に「アスペルガー症候群」「自閉症」と呼ばれていると特性。
この特性に対して、著者は言う、誰でもみなこのような自閉的な特質を持ち合わせている、オールorナッシングではなく、単なる大小の問題なのではないか、と。
ここからは自閉症、ここまではそうでないという線は、だから、実はどこにも引けないのだ。先に述べたようにその傾向は大なり小なりあらゆる人々のうちに偏在する。ボーダーというよりグラデーションで考えよう。
 
「ボーダーというよりグラデーションで考えよう」という考え方が本当に好きだった。


この本の中で一貫してこめられていたメッセージは、相手を理解しましょうねとか、人間は本質的には同じものだよ、という類の異文化理解のススメではない。
根本的に他者は理解できないということを前提に置き、それでは私とあなたの「間」にはなにがあるのか、どのような架け橋をかけることがが美しいのか、点と点を結ぶその「空間」に対する鋭く深い考察である。


そしてこの他者とのつながり方を考えるということが、今の僕たちにとって、とても大切なことなのではないかと読みながら考えた。
一つ前のブログで書いた同調する意見を持つ人だけで固まりがちなSNSがはびこる時代に、異国の人と接する機会が多い時代に、そして、「理解できないものは、排除する」「ボーダーをつくる」というナショナリズムが声高に聞こえてくる時代にとって。





「トロントのリス」というエッセイの最後、ジョンとの会話は、このような言葉で締めくくられる。
―人と人とが本当に理解し合うなんてことはないんじゃないかな、まあ、それでも一緒にコーヒーは飲めるわけだし。
この心持を大切にしていきたい。


コーヒーでも、ビールでも、お茶でも 、チャイでも、なんでもいい。
親しい人、見知らぬ人、理解できない人とでもいい。
同じテーブルにつく。
一緒に語らいあう。
小さな小さな会話を重ねあう。


「あ、こいつとは分かり合えんな」と思ったとしても、その事実を受け入れる。
分かり合えない人とコーヒーを飲めたことに、価値がある。




1/24/2017

靴の紐をしめて、エコーチャンバー(共鳴室)から出てみる

今日は少しだけ、心に残った記事と、スピーチと、昔読んだ本について。

海外に行く、旅に出る、あるいは非日常を経験する。
その時に、何を求めるか、何を知ろうとするか。
慣れ親しんだものことを無意識のうちに探して見つけては安堵するのか、或いは初めて見るものに疑問を感じそれを試してみようとするのか。

もっと具体的に話をしてみると、旅の途中のスタバやマックにホッとするのか、名も知らぬ食べ物を売っている屋台やお店に入ってみようとするのか。そんなこと。

歳を重ね、自分の中のスタイルが出来上がってくると、自然と僕らはそこにしがみつこうとする。失敗したくない、時間をロスしたくない、イメージを崩したくない、仲間はずれにされたくない。

そうやって僕らは次第に挑戦をしなくなる。
幼いころに感じていたつまらない大人に近づいていく。
記事の中にあるようなエコーチャンバー、共鳴室で、自分のスタイルが周りから聞こえてくることに安寧するのだろう。

3年前の夏、僕は1人で沖縄にいた。
その時の自分は進路に悩んでいて、軸もいまよりブレブレだったけれど、共鳴室には入っていなかったように思う。『検索ワードを探す旅』を楽しみ、果敢に挑戦をしていた。

オバマ氏がスピーチで伝えるように、靴の紐をしめて政治活動を…ではなくて、もっと気楽に、靴の紐をしめて、新しい経験に挑戦してみよう。居心地の良いエコーチャンバーから抜け出してみよう。改めてそんなことを思った日。

とりあえず明日は、ベジマイトをスーパーで買って食べてみよう。
街を歩き気になった初めて見る旗を写真に撮り、その意味を調べてみよう、周りのOGに聞いてみよう。



2017年1月24日日経新聞朝刊、グローバルアイの記事より引用。

「エコーチャンバー(共鳴室)現象」。昨年の米大統領選以来注目される「偽ニュース」問題では、ソーシャルメディアの特徴をとらえたこの言葉がしばしば登場する。
価値観や考え方が近い人同士がつながりやすいソーシャルメディアでは、共有される情報が偏りやすく、意見が極端になりやすい。それどころか、真実かどうかより、共感できるかどうかが重視される。「ポスト・トゥルース(真実)の時代」とも呼ばれるこの傾向こそが、偽ニュースが拡散する土壌を育んだという指摘だ。 
「もしインターネット上で見知らぬ人と議論するのに疲れたら、外に出て人に話しかけてみるといい」。10日、大統領としての最後の演説でオバマ氏がこう呼びかけたのは、決して偶然ではない。深まる米社会の分断を修復する糸口を自分なりに探す旅に出たザッカーバーグ氏に、親交のあったオバマ氏の助言は重く響いているはずだ。

この記事の中で引用されている、オバマ元大統領のフェアウェルスピーチ。
New York Timesのビデオとスクリプトから言葉を引用。
President Obama’s Farewell Address: Full Video and Text

21:00
For too many of us it’s become safer to retreat into our own bubbles, whether in our neighborhoods, or on college campuses, or places of worship, or especially our social media feeds, surrounded by people who look like us and share the same political outlook and never challenge our assumptions. In the rise of naked partisanship and increasing economic and regional stratification, the splintering of our media into a channel for every taste, all this makes this great sorting seem natural, even inevitable.
And increasingly we become so secure in our bubbles that we start accepting only information, whether it’s true or not, that fits our opinions, instead of basing our opinions on the evidence that is out there.
37:30
Citizen. So, you see, that’s what our democracy demands. It needs you. Not just when there’s an election, not just when you own narrow interest is at stake, but over the full span of a lifetime. If you’re tired of arguing with strangers on the Internet, try talking with one of them in real life.
If something needs fixing, then lace up your shoes and do some organizing.