1/05/2014

識字率の上昇は哀しみを増加させる?

今朝の日経新聞「日曜に考える」の中で、フランスの歴史人口学社であるエマニュエル・トッド氏の話す2014年の世界展望の話と、出生率と識字率に関する話が興味深かった。トッド氏は世界の潮流変化を、歴史人口学と家族人類学の見地から読み取り、これまでに旧ソ連崩壊や米国衰退を的確に予測してきたという。

「世界は米国の強すぎる軍事力に嫌悪家を抱いていたが、米国という帝国が自ら世界の支配者でないと認めると、米軍のいない世界を心配し、米国が必要だと気づく。これは大いなる逆説だ」
「ドイツの産業がフランスや南欧の産業を壊している。ドイツ人は魅力的だが、彼らの問題は能率が良すぎることだ。(中略)フランスの指導層はドイツの支配を受け入れ、イタリアやスペイン、ギリシャやポルトガルに対する非常に厳しい政策が正当化された。欧州はもはや民主主義ではない」
 「南欧の状況は悪化の一途だ。社会システムや民主主義が崩壊を始め、暴力も起きている。まるで神への犠牲を強いられたように、経済が通貨を守るために回っているようだ」
(2014年1月5日付け日本経済新聞「日曜に考える」より抜粋) 

アメリカが生まれ変わる過程であること、強いドイツによって欧州に影がもたらせれていることを説明するインタビューの中で、興味深い説明文があった。
トッド氏は 「歴史人類学と家族人類学の見地で人口統計の推移や家族構造の違いを分析し、世界の潮流を論じる」ことを得意としている。そして持論の中で「出生率の低下からイスラム圏の近代化」や「民主化が進む」と指摘しているという。



なぜ、「出生率の低下」⇒「近代化and民主化」というロジックになるのかがよくわからなかったので調べてみたところ、トッド氏の理論を説明している人の記事や、また別のインタビュー記事が出てきた。
dacapo-チュニジア、エジプト、リビア アラブ革命が起きたわけ その1
苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介・解説)


イスラム圏の人々が社会的に台頭してきたこの十数年の間、民主主義の先進国はこのように考えてきた。
「自分たち(=キリスト教国家)とは違う思想を持つ国が急速に力をつけてきたが、彼らは民主主義は受け入れない。だから、民主的で平和な世界を彼らと作るのは難しい」
そのようなロジックで 、イスラム諸国の民主化にノーを叩きつけてきた人々が(特に欧米で)多かった、らしい。そのようなロジックに対して、トッド氏が、
「いや、彼らの識字率は飛躍的に伸びている。文字を知る(自ら考える)⇒既存の信仰への疑念⇒出生調整(信仰にとらわれずみずからの生き方を考える)、そんな流れで出生率の低下に伴って民主化が進む」
そのように説明している。
「出生率の低下」⇒「近代化and民主化」の流れの前に、「識字率の上昇」というファクターもあり、それが「信仰心への疑念」にも結びつくということが、興味深い。


日本に暮らしていると、識字率が100%であることが当然のように思える。しかし、世界に目向けてみると決して高い識字率は当然ではない。
wikipediaの「識字」にあるページの識字率別に色分けされた地図を見ると、中東・アフリカでの識字率の低さが一目瞭然となる。
(wikipedia literacy rate world PNG)


トッド氏が語るような、民主化を図るバロメーターとして「識字率」「出生率」(あと「内婚率」)に着目するというのは非常に興味深い。たしかに、民主化度と、それらのバロメーターの間には強い相関が見られそうだけれど、それによって未来の姿が「予言」
できるのかどうかは、僕にはまだ知識不足でわからない。


ただ、僕の経験則でわかることが、情報に接することで、人々の意識の中に芽生えるものは、決して良い物だけではないということ。知識や情報とともに生み出される「妬み」。当然、能力差によって引き起こされる貧困格差。識字率の上昇によってもたらされた民主化によって、人々の経済的、さらに精神的な格差を生み出していることも事実であると思う。


これは、幸福度とも関連がある。数年前に有名になった「世界一有名な国」であるブータンの識字率は、52.3%。ランキングに乗っている183カ国中163位。国民の半分が文字を読めない国が、幸福度が最も高いのだ。「文字が読めないから、思い煩うことが少なく、幸福度が高い」という流れが見えてくる。また、僕がチュニジアで知り合った現地の友人は、ロンドンの大学で語学を学んだこともある敬虔なイスラム教徒であるが、「自らの宗教を信じる気持ちが正しいのか、悩むことがある」と、僕に打ち明けてくれた。ロンドンで様々な書籍を読むうちに芽生えた感情で、日本の仏教に惹かれているとも教えてくれた。


さて…


トッド氏のインタビューを読み終え、一日浅草の街の七福神詣をしてきた。
なぜ、神様が7人もいるのだろうか…彼らの所以は何なのだろう…そんな疑問がふつふつと生まれてきた。今年はしっかりと古典籍や思想本、宗教によってもたらされた文化を紐解いてみようと考えている。今日のブログのタイトルは「識字率の上昇は哀しみを増加させる?」なんていうようなトッド氏のロジックとブータンの例から安直に導き出した仮定を書いてみたけれど、学ぶこと・知ることによる悩みが、人々をより高尚なものにさせることがあると僕は思っている。


今年も1年間、気付きと学び、悩みと成長の多い年となりますように。



「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」 ー ジョン・スチュアート・ミル



12/30/2013

「和魂洋才」を目指して

2013年を振り返ってみると、日本に対する意識がまた一層深まった1年だった。
タイトルに「日本」と付くブログ記事をたくさん書いた。その多くは留学やバックパック経験から得た様々な気づきを、比較文化論的に書いたもの。自分自身の日本に対する無知を恥じるような内容でもあったようにも思う。


僕だけではなくて、社会的に「日本」を意識する風潮になりつつある。
2020年に開催が決まった東京五輪は、世界に対して東京や日本をどのように売り出すかを考えるきっかけとなる。日本らしさについての論議が深まる。
僕のように海外を経験する若者は、みな口をそろえて「日本の文化を知らなかった」と言う。彼らは日本を知ろうと努力する。
そして、僕の祖父が亡くなったように仕事一筋で高度経済成長を支えてきた団塊の世代の父母が亡くなっていく。身近な人の死と、それに伴う葬式などで初めて向き合う仏教などの文化。自らが生を受けた意味を感じ考えるときに寄り添う宗教に、人の意識は向かう。
若者も、年長者も、そして経済も、日本を意識し始めている。
これから数年、どんどん「日本人らしさ」がキーワードとなるだろう。


社会の成熟に呼応するように、日本の伝統文化に回帰しようという動きも目立っている。僕達がものごころついてからの社会は、デフレだの、失われた20年だの、経済が青天井に成長するような風潮を欠いていた。その結果、必然的に意識は未来ではなく過去に、物質性ではなく精神性を重視する。そんな傾向は特に若者に多いという。
神社仏閣を訪れる20代、30代が増えている。テレビ番組では「和風総本家」「謎解き江戸のすすめ」「ケンミンSHOW」のような日本らしさを看板にしたものが目立つ。お正月、花見、花火大会などの日本特有の季節行事を大切にしたいと考える人も多い。


僕はこの日本に意識が向かう傾向は概ね良い傾向だと考えている。
今まで、様々な国のコンセプトに乗ってきた僕達日本人。僕は「米国西海岸の〜」「ジャズが似合う夜の〜」「伝統的な欧州の〜」そんな広告を無意識にいいね!と考えてしまっていた。でも、日本のことも知らないのにそんな海外のブランドを信仰してしまうのはなんだか悲しいな…と最近感じ始めた。日本の美意識やブランドを、まずは見つめなおすべきではないだろうか。


そして、できることならこの傾向を一時的なものにしたくない。
スターバックスの抹茶ラテや、花火に浴衣を着ていくこと。美味しい和食食べました!刹那の日本を楽しむ、そういった商業ジャパニーズも悪くはないけれど、もう一段階深く、僕(と、僕が大切だと思う人)が生まれ育った国についての理解を深めてみたい。なぜこんな文化があるのだろうと、身近な日本を時系列にそって体系的に紐解いてみたり、50年後、100年後に残したい日本はなんだろうと考えてみたり。


決して、日本を唯一崇高なものだと考えろ!と言っているわけではない。
考えることなく自分の国を大切だと思うことは、危ないナショナリズムに直結してしまうものだから。けれど、もう少し、自らの文化を苦しみながら学んでみてもいいのではないかな…と思う。


2014年。
日本の文化や歴史をしっかりと考え感じ、自らの芯となるものをより強く、より深くしたい。単純な日本ブランドに流されるのではなく、なんでこれがいいのかな?守らなければならないのかな?という意識を持ちながら、しかし大切にしたい価値観を見極め、たくさん学んで行きたいと思う。


長々と書いたけれど、2014年の自らが拠り所としたいものを一言で表すと、「和魂洋才」。
「洋魂和才」でも、「和魂和才」でも、「洋魂洋才」でもない。
海外と日本を対比し、日本の劣ってるところを見つけ考えていくけれど、魂はあくまでも和風で生きたい。


一年の始まりを祝うお正月。
それは日本の文化をさらに強く感じる季節でもある。「歳神さま」を家庭で迎えるために、目印である門松を立て、御節を用意し神と食事を共にしつつ、福を招き災いを打ち払う願いを込める。


皆様が、日本が、そして世界がよりよい1年となりますように、初詣では神にそうお願いしようと思う。


11/28/2013

人を好きになるとき

好きな人ができました。
そんな話をすると、必ず周りの友達から聞かれることがある。
「可愛いの?」
「どこが好きになったの?」
そんな質問を受けると、僕は考えてしまう。良いところが見当たらないからではない。条件付きで誰かを好きになりたくない、こと友人関係や恋愛、家族に関しては…って、そう思っているから。世の中には評価によって成り立つものと、評価では測れないものがある。


社会を生きていくなかで、僕たちは常にだれかに評価され、だれかを評価する。
うまくできたらAをあげよう。内申書に○をあげよう。人事評価に反映しておこう。判断され、分別し、選択する/される。そんな利害関係がときにはひっそりと、ときには露骨に僕らの目の前にあらわれる。しかしそれは社会が持続可能なシステムとして稼働するためには必要不可欠なことでもあると思うし、自らの行動が評価されない社会の失敗なんかはソ連崩壊の姿からも感覚的にわかる。みんなが同じ服、同じ食べ物、同じ作業をする評価を欠いた世界からは生産性が生まれないだけでなく、何よりも多様性がなくつまらない。様々な人の意欲や感情を奮い立たせるものにあふれる社会のほうが活気があり、なにより人間らしく生きられる。


しかし、評価をしてはならないものも僕にはたくさんあるように感じられて、その一つが恋とか愛とか友情とか。本当に大切な人を条件付きで愛したり信頼していいのだろうか。
「性格がやさしいから好き」その人が鬱になってギスギスし始めたら別れるの?
「可愛いから付き合ってる」事故で顔に怪我を負ったらさようなら?
そんなの、友情じゃない。愛情じゃない。社会を支配している、大切だけど心苦しい「評価」。それらを使って判断してはいけないものが、人間をミクロに見たとき、一対一の関係を築くときには往々に現れる。


以前どこかで読んだストーリーにこんなものがある。
おばあちゃんが、家に訪れた小学生の孫にこのような言葉をかけられた。
「おばあちゃんは、英語しゃべれないってことは、バカなんだね。」
大切な親類との関係を、幼い子供が英語できる・できないで評価してしまったという話。英語が初等教育の教科になった以上、「評価」せざるを得ない。そのため、英語ができない人=劣った人と教育されてしまう幼い小学生。でも、英語ができようが、できまいが、おばあちゃんとか大切な人に、英語能力という単一の物差しを当てて評価をしてはいけないと、僕たちは知っていなければならない。


この小学生と同じようなことを僕たちも日常的に行ってしまっていないだろうか。友人をその語学能力で、家族をその稼ぐ能力で、恋人をその見た目だけで。
僕たちは知らず知らずのうちに、評価してはいけないものに対しても、格をつけたり点数をつけたりして、プラスマイナス、損得で考えてしまっていないだろうか。


「うまくいってもいかなくても、わたしにとってあなたの価値はかわらないよ」
条件付きの愛が蔓延している世の中で、みんなが心の奥で求めているのはそういうもの、そんなふうに言ってくれる人なんじゃないかと、僕は思う。