11/01/2013

絵本を読まない日本の大人たち

AKBとか、ゆるきゃらとか、可愛さや幼さがいつまでたっても認められ続ける日本の文化にちょっと飽き飽きしている人もいる。今日の記事はそんな人達の心に響くものになるかもしれない。


「世界一の本の街」と呼ばれる神田神保町の古書店街で開催されている「神田古本まつり」へ行ってきた。読書週間に合わせた東京の秋の風物詩は、今年で54回目。目抜き通りに設置されたラックに古本がどっさりと積まれた「青空掘り出し市」は、なんとなくパリのルーブル美術館対岸の古書通りを彷彿させる。「本の回廊」は国関係なく人々を魅了するものなのだろう。


僕が訪れた日の空模様は生憎の雨。青空の下の乾いた本の匂いを嗅ぐことはできず、ブルーシートで覆われた回廊を横目に、少しだけ安くなった本屋さんの前をぶらぶら歩く。そんな中でふと立ち寄った書店の一つがとてもユニークだった。「絵本の本屋さん」。壁一面に設置された本、平積みされた本、それらがすべて絵本のお店。なつかしいタイトルや見たこともない絵本をパラパラと眺めながら、童心に戻ったようにシンプルな本に見入り、「小さいころはこの本が好きだったよ」なんて話をしながら思いがけず長くそこにいた。

見覚えのある本を見つけた。僕の家の本棚にある2冊の絵本。小さい頃に読んだ記憶があまりないので、ぼくが少し大きくなってきたぐらいに父さんか母さんが買ってきたものなのだろう。シンプルな白い背景と線だけの絵本。文字は本当に少しだけ。
「ぼくを探しに」
「ビッグ・オーとの出会い」

シェル・シルヴァスタインの本を訳した倉橋由美子さんのあとがきが、印象的だった。以下引用。
「考えてみると大人の大部分はうまく大人のふりをしていけるようになった子供か、それがうまくできないでいる子供か、そのいずれか」
「シルヴァスタインの童話がアメリカで人気が高いのは、大人を演じるのに成功しているにしろ失敗しているにしろ、アメリカ人が自分の「子供性」を鋭く意識している人間であることを示すものかもしれない。」
 「これに対して日本人の場合は、子供がそのまま大人として認められるように世の中ができていて、自分の中の子供を余り意識しないで済むし、またそのことで悩んだりすることも少ない。それどころか、日本では、大人を演じることが下手な人間はその純真さや童心、要するに幼稚さを売り物にして生きればかえって珍重されるのである。そういう日本人にはシルヴァスタインのような発想は案外なじめないのかもしれない。」

このあとがきで書かれている「子供性」について、ちょっと考えた。僕は海外に何度も赴くことで、逆に日本のことをたくさん知ることができた。僕が小さい頃から当たり前だと思っていた当然目の前にある日本の感覚が、実は特殊なものなんだなって知るきっかけを得た。それは、僕だけでなくたくさんの海外旅行や留学に行ったことがある友達ならわかってくれることだと思う。


それと同様に、僕たちは小さいころの子供性から、ある日に急にスイッチが入って大人性を得るわけではない。連続的な日々の中で子供から徐々に大人になっていく…はずなのだけれど、それはやっぱり難しい。倉橋さんが述べているようにどこか日本には子供性を引きずる基質は誰にでもある。さらに日本には子供性がいつまでたっても認められる環境があるように僕は感じるのだ。自分自身が子供性を引きずっているかどうかは、日本の素晴らしさや自らがそれらに関して無知であることに気づくのと同様にして、いっぺんその同質なコミュニティから這い出て、客観的に自らのポジションを俯瞰しないと気づかない。


「おおきくなるっていうことは ちいさなひとに やさしくなれるってこと」
この文も、絵本からの引用。おおきくなるっていうことは (ピーマン村の絵本たち)
おおきくなって、大人になれるってことは、自分の中の子供を意識できるようになって、それゆえに悲しくなったり辛くなったりすること。 でもそれは、僕達のつぎのちいさなひとに、子どもたちに、優しくなれるってことなのだと、中川ひろたかさんは伝えている。


さて。AKBとか、ゆるきゃらをもてはやす日本の文化は、自分自身が子供だと認識している人が楽しんでいるのか。それとも、子供だと気がついていない子供のままの大人がはしゃいでいるのか。後者ばっかりの日本が続いたら、他の人に、弱き人に、マイノリティに、ちいさなひとに、やさしくなれない日本になっちゃうんじゃないかなって、僕はちょっと悲しくなる。


読書の秋。
新書、哲学書、小説、就活本…そういう本は、おとなになるための子供が読むための本。でも、ときにはその反対の、こどもを思い出すための大人の本を、人は読む必要があるんじゃないかな。3分ぐらいで読み終わる絵本。どうぞ手にとって見てください。やさしい人になるために。子供の心を思い出すために。
本当に大切なことが、絵本には詰まっていて、僕は涙が流れました。

10/29/2013

共有じゃなくて話したい

週末は、たくさん話をした。
土曜日には小学校の先生をやっている友達と。GoogleのCMに出ているダンスの苦手なのび太くんみたいな風貌の彼にどことなーく似ている僕の友達は、国語の先生2年目。今年は5年生を受け持っているという。


小学校5年生ともなると憎たらしさやずる賢さを発揮し始める年齢。
「先生と◯◯ちゃんを教室で二人っきりにしたら先生捕まっちゃうんだよ−!」
とか言われたり、早い子にはもう始まってる女の子のできごとのこととか。悩みも多いみたいだけれど、その分楽しみも多そうで。日々学んでいる彼に負けないで過ごしたいな…と思わせてくれる大切な友人だ。


彼は数ヶ月に一度、『邂逅(かいこう)』と名した集まりを企画していて僕も参加している。要は酒と食いもん持ちよって、友達の友達の友達とかと狭い部屋で色々と話しをするだけ。アメリカでは頻繁に見られるハウスパーティのようなものだけれど、日本でのんびり住み暮らし学生をしているとこんな機会はさほど多くない。毎回楽しみにしているしゃべりの場。出会いの場。


そんな彼から借りている一冊の本『ザーヒル』パウロ・コエーリョの中に、こんなセリフがある。
人間同士の関係において一番大切なのはおしゃべりをすること。なのに、人はもうおしゃべりをしなくなっている―すわって話をしたり、人の話を聞いたりするのを。みんな劇場や映画館に行ったり、テレビを見たり、ラジオを聞いたり、本を読んだりするばかりで、ほとんど話をしない。
(『ザーヒル 』p188)
この一節に、ギクッとなった。僕は、人間同士の関係で一番大切なおしゃべりをしなくなっているんじゃないかって。


テレビやラジオなんかよりも、もっと僕らのしゃべりを奪っているものがある。ネットだ。もちろんネットのおかげでたくさんの人に発信をすることができるようになったり、旅先で救われたこともたくさんある。どこかに出かければ、写真をアップロードする。ブログも書く。Likeの数にウキウキするし、コメントは待ち遠しい。それでも、こうやってあることを一般公開して、僕は誰かに情報は共有しているけれど、そのことについて誰かと話をしていないんじゃないかって。気になる人が何をしているかは知っているけれど、話してよって言わないし耳を傾けていないんじゃないかって。


久々にあった友達の近況がどうなっているのか、ネットを介して僕らはかいつまんで知ることが出来る。でも、僕は、改めて、会ったときにたくさんの思い出話や、嬉しかった話、悔しかった話、悲しかった話、これからどこに行きたいか、これから何をしたいか、いま何に興味があるのか、なにがつまらないのか…そんな他愛もないけれど、聞かせたくて仕方がない気持ちをため込んで、いざ、会ったときに、これでもかというぐらい、話をしたいと思う。


そんなことを思いたって、日曜日、おばあちゃんに会いに行った。僕はメキシコ旅や留学の話をして、おばあちゃんは昔話をしてくれた。のんびりと、たくさんの話ができた。大切な人とそうやって話すことは、その人の存在を大事に大切にすることのように思える。ブログやfacebookで何やってたか知ってたよっていうのは、なんだろう、嬉しいと同時になんだか物悲しい。


本ばっかり読んで、共有することばっかりして(今もこうやってしているわけだけれど)、誰か大切な人と話すことを疎かにしてないかな。
のんびりと話したい、秋晴れの下で。寒空の中で。



10/23/2013

教養は「当たり前の木」を愛すること

週末にあった留学報告会、そして今夏に研究留学を行っていた友人との立ち話で、「教養の大切さ」について話す機会があった。「教養」って聞くと難しく感じるけれど、僕はそれは「当たり前の木」を愛するとても楽しいことだと思っている。そんなことについて。


「『いただきます』って、どういう意味?
宗教的なものなの?
日本人ではない僕はやってはいけないのかな。」

僕の友人はアメリカでそう問われて答えに困ったという話をしていた。確かに僕達が当然のように言う「いただきます」は、日本人にとっては何も考えずにおこなう習慣となっていて、どのような意味であるかを考える機会はほとんどない。「当たり前」なのだ。みんなが知っている「当たり前」に関していちいち「なんでだろう」と考えたり疑問提起をすることは和を重んじる日本のコミュニティの中では異端の目を向けられることでもあるし、体力的にも精神的にも疲れる。だから、当たり前を疑わない。僕らは知らず知らずそう育ち生きてきたように感じる。


でも、その「当たり前」が「当たり前」ではない人と接するときには話は異なる。

「いただきます」を言わない人と話をするとき。
「神」という厳かな言葉を気軽に若い女の子グループには使わない人と話をするとき。
「民主主義」という国の良さを知らず、民主主義国家の力によって愛する人を亡くした人と話をするとき。
「平和」が当然ではない地域の人と話をするとき。
「桜」を見て美しいと感じない人と話をするとき。
「ヒロシマ・ナガサキ」の悲劇を悲しんでくてる人と話をするとき。

ぼくたちは、「」の中の当たり前を、しっかりと説明ができるだろうか。語るべきことを持たないのを英語ができないせいにしていないだろうか。生まれた国が違うから仕方ないと勝手にあきらめていないだろうか。


日本列島に生まれ、単一民族国家である日本人に共通していることは、その日本や日本国籍などにまつわる自明なものへの素朴なもたれかかりであるように感じる。その結果、民族的少数者や外国人、障害者や同性愛者といった社会のマイノリティに生きる人々は自明性から生まれるさまざまな抑圧や排除の矢面に立たされ、苦しんでいる。昨今のヘイトスピーチ問題なんかも、自らのことを知らず他者批判することで「当たり前の木」にただよりかかっている人々の虚しい声にしか僕には聞こえない。


一つの文化=「当たり前の木」がそこにあるのならば、その種を巻いた人がいて、育てた人がいて、長い長い年月の風雨を経験して、その木の恵を授かって生きた生物がいて…年輪の数だけ、木の幹の傷の数だけストーリーがある。僕は、図らずとも日本という当たり前の木のもとに生まれた。これからずっと付き合っていくつもりのこの木は絶えず身近にあるのだから、その木に刻まれた様々な物語を知りたいなぁと思っている。そしてこの木が今後もこの場所で立派に立ち続けるためにはどうすればいいのかと漠然と考え始めた。それが、そんなことが、僕は教養の始まりであると考える。


ちらっと見かけた広告に、こんなフレーズが書いてあった。
知らないことが多いってことは
これから知ることが
できることのほうが多いってことさ。
教養を意識して学び始めると、その量の多さや知らないことの多さに愕然としてしまうこともあるけれど、それだけ知ることができること、「当たり前の木」をもっと愛することができるようになるってことだと僕は思う。


とても概念的な話で終始してしまったけれど、教養の大切さについて、考えたこと。