1/15/2013

雪の日には、散歩をする。

1年ぶりの雪の東京。確か去年は年末年始あたりに雪が降った。その時も結構な大雪で、交通機関が麻痺して、翌日からはバリバリに凍った路面を人も道路も犬ですらも滑りながら生活をしていた。明日の朝も冷え込むらしい。バリバリな路面と人間・動物の静かな戦いが各地で勃発する。


雪が降ったら、僕は散歩をすることにしている。どこか遠くへ行くわけではない。家の周りをぐるっと歩きまわるぐらい。外の寒さに負けて、温かい家の中でのんびりしたくなるのだけれど、とびっきりの防寒具となるべく滑らなくて水が染みてこなさそうな靴を履いて、外に出かける。


雪が降ると、街が静かになる。夜が明るくなる。時間がゆっくりになる。
これは何も気分だけの問題ではなくて、実際に空気の隙間を多く含む雪は音を吸収し、白色は街灯の明かりを綺麗に反射する。自動車の最高速度は極端に遅くなり、自転車も歩く人のスピードもゆっくりになる。黒くて硬いアスファルトに囲まれた日常では当然となってしまっている様々なことが少しだけ変化する。そんな非日常はとても貴重なものだと僕は思う。


東京に雪が降る日は、1年でもせいぜい2〜3日ぐらい。そう考えれば、ゆきがしんしんと降る東京にいられるのは、今後50年間住み続け生き続けたとしても100回ぐらい。そう考えたら、寒いとか滑って危ないとかいってられない。貴重な日を、ほんの少しだけでも味わいたい。だから、雪の日には散歩をする。そういったメンタリティーをいつまでも持ち続けていたい。
成人の日で、新成人のみんなは大変だったかもしれないけれど、「ホワイト成人式」を迎えられたと思えれば、なんだか特別な日であったと思えて、足元手元は寒くても心は暖かくなる。


夜もどこかに散歩に出かけようかな…
そんなことを考えていたら、知り合いから電話があった。久々に近くにいるから飲みに来ないか、と。室内にこもりがちな最近の自分を釣れ出してくれる人がいることに感謝。
散歩がてらお店に行き、雪の日だからと言い訳にしながら普段はあまり飲まないウィスキーを、カウンターで、カッコつけながら。ケンツ、ありがとう。







1/13/2013

Gay, Lesbian, Bisexuality, Transgender

本日、1月13日付け日経新聞朝刊の「日曜に考える」の中で論説委員・小林省太氏が書かれた『「結婚」はどこへゆく』の記事を読んで。
日本では理解がすすまないGLBT(ゲイ, レズビアン, バイセクシャル, トランスジェンダー)。その存在すら認められていなかったりマイノリティを排除するような傾向が強い日本ではほとんどの人が無縁であるように思っているのではないだろうか。けれど、そのGLBT同士の結婚という難しいテーマに、世界の人々はすでに直面している。
以下、記事より引用。

 きょう13日、パリを中心にフランスでデモがある。(中略)スローガンは「同性婚反対!」である。
 昨年誕生した左派政権は11月、男性同士、女性同士の結婚を認める「万人のための結婚」法案を閣議で決めた。その前、夏ごろから、宗教、哲学、医学などあらゆる分野を巻き込む是非論争が続いている。 
 同性婚を認める動きはフランスにとどまらない。米国では昨年5月、賽銭を目指したオバマ大統領が同性婚指示を表明。(後略)
 英国でも北アイルランドを除く地域で、同性婚を認める法案を議会に提出する準備が進む。(後略) 
 そしてこのテーマは度の国でも社会の大きな変革につながるとみなされ、賛否が拮抗する激しい意見の対立が起きているのである。
 すでに同性婚を認めている国はある。主要8カ国(G8)ではカナダ。欧州連合(EU)のオランド、ベルギー、スペイン、スウェーデン、ポルトガル、デンマーク6カ国などだ。 
 しかし米仏英という国々で相次ぐ動きをみると、改めて結婚とは何か、平等とは何か、を考えさせられる。
 結婚にはタブーがある。日本の民法は年齢んお除権のほか、重婚や近親婚の禁止をさだめている。多くの国に共通する事項だろう。ただ、結婚は男女でのみ成立する、というのは長く、言わずもがなの前提だった。
 ところが、その前提はもはや通用しない。
(以下、世界で起こっている同性婚賛成と反対の意見をかいつまみ、問題提起をする)

僕が留学していた米・サンフランシスコは、世界でも有数のゲイコミュニティを抱える街だった。大学にも街中にもゲイやレズの人はたくさん見かけたし、仲の良かったアメリカ人の友達にはゲイやバイセクシャルの人もたくさんいた。
しかし、そんなSFであっても、同性婚は認められていない。
約2年ほど前に書いたブログの記事の中で取り上げたが、宗教的理由、政治的理由で同性婚禁止反対の条例"Prop8"が2008年に可決している。(→"The Kids Are All Right")


引用した記事の中にもあるけれど、同性婚は宗教、哲学、医療といった難しい問題を包括している。だから、僕の仲の良い友達がゲイであったとしても、それだけを理由に「同性婚に賛成!」と安易に声をあげてはいけない。


例えば、医療に関して。山中教授の功績により一躍日本のリーディングイノベーションとなったiPS細胞を用いれば、男性が卵子を、女性が精子をつくることも理論上は可能となるそうだ。そうなると、結婚という概念に透けて見える「子供のいる温かい家庭」というものは、異性同士による生殖がなくても成り立つ。上のリンクの中で述べた映画"The Kids Are All Right"のように女性同士のカップルが精子ドナーを受けるという例もある。しかしこれは、子供を作る大人のエゴであって、生まれてきた子どもたちにとって、片方の性の親しかいないということが問題になるかもしれない。フランスの反同性婚でもには、「僕にはパパとママが必要だ!」など子の立場で書かれたプラカードが目立つという。


こういったことを考えていくと、「結婚ってなんだろう」という問題にいきつく。僕と同い年ぐらいの女性は既にそういったことを意識して漠然と考えたりしている人も多いと思う。男であっても、就職活動の自己分析なんかで自分の将来に思いを馳せたときに、家族とか子供のいる未来を想像するのであれば、なんとなく結婚→家庭→子供というステップを思い浮かべるのではないだろうか。結婚を当然のことであると考えていて、そこに子供も当然要るべきと無意識にでも思ってしまうのであれば、子供を作ることができずに大多数とは異なった家族をつくり上げる同性婚に対して、否定の感情を将来抱くかもしれない。


「人はなぜ結婚するのか」「そもそも結婚とはどのような役割を担っているのか」そんなことが書いてある哲学書を少し読んだこともある。完璧には理解できなかったけれど、僕の中では結婚というものは社会的生活を営むために結婚という法律によって規定された枠組みが必要なのだと思っている。無人島で誰かと2人で愛しあって自給自足するのであれば、結婚なんて制度は全く必要ない。しかし、僕らは社会の中で生きている。この社会の繋がりの中で幸せを見つけて生きて行く選択を(無意識にでも)するのであれば、結婚という選択は、現状では多くの国、社会、世界というシステムを動かすのに欠かせない歯車の規格となっている。


しかし、こういった『愛』に関するテーマに寛容で人々の関心も高いフランスでは、事実婚にも多くの社会的保障を与えている。少子化がすすむ日本では、フランスを見習って事実婚に対する保障をもっと高めろといった論説や識者の意見も聞こえ始めたけれど、どうなのだろう。


正直、この同性婚や結婚をとりまく今後日本に住んでいる僕達も直面するであろう問題について、僕はまだあまり知識がない。だから、賛成だ!反対だ!を安易に言ってはいけないと思っているし、今後も僕のスタンスは変わる可能性は充分にある。
しかし、今の僕は、同性婚には賛成だ。それはゲイやレズの友達を僕は持っていて、彼らの男性とも女性とも言えないユニークな価値観は人間の進化だと思うから。進化を受け入れる社会は、異端児を抑えこむ社会よりも複雑で流れる涙も多いだろう。けれどその先にあるもっと自由で新しく楽しい社会を作れると信じたい。だから賛成。精神論で全くロジカルではないけれど。
その第一歩として、僕は同性婚問題に関してはポジティブなスタンスで考えながら、ネガティブな情報にもしっかりと耳を傾ていきたい。


San Franciscoの街のいたるところで見かけられた、ゲイの象徵であるレインボーフラッグを思い出した。

「いい写真」と"photograph"について


先日、旅サークルの運営を行なっている友達からこんなことを言われた。
「竜之介さん、すごく『いい写真』撮ってますよね。今度スペインに関するフリーマガジンを作るので良かったら写真を何枚か頂けませんか?」
豚もおだてりゃ木に登る。喜び勇んで大量の写真を送りつけてしまった。


3年前、留学に行くことが決まり、感情ばかりが先走りする僕は「留学中の思い出を残すために良いカメラを買おう!」、そんな理由から付き合っていた彼女のススメでカメラを買った。RICOHのGR Digital。ズームがなく、レンズの交換もできないけれど、ポケットに入り、撮りたい時にすぐにとれる僕のお気に入りのカメラ。


留学中、英語が下手くそだった僕は、撮った写真をfacebookに載せてみんなと共有することでたくさんの友達を作ることができた。音楽も絵もできない僕にとって、言語以外の自分自身の表現方法という貴重な方法の一つが写真だった。
今でも毎日、カバンに、ポケットに、常にこのカメラを持って過ごしている。


写真は奥が深い。
『写真』という漢字。そこには、「写真は真実を写すものだ」、そんな志やルールのようなものが存在しているように感じる。でも、そんなに真実ばかりを追い求めなくてもいいんじゃない?って僕は思う。英語で写真は、"photograph"。"photo(光)+graph(描く)" =「光で描くもの」。光で描くものすべてが写真なのであって、真実でなくても、嘘も、イメージでも空想も感情でさえも許容されているような、表現の自由がこの言葉にはあるように思う。だから、自分の感性に一番近いようにカメラの設定を変えたり後から修正を加えたりして、写真とふれあう、遊ぶ、伝える。そんな楽しみ方をしたい。


写真には「うまい写真」と「いい写真」がある。僕はそう思う。
「うまい写真」は、構図をしっかりとつくったり、露出やシャッタースピード、ホワイトバランスなんかもしっかりと考慮したもの。客観的にみて評価できるものであり、努力と技術と知識で養うもの。
「いい写真」は、誰かの感性に訴えかけるものであり、ピンぼけだろうが後から加工がしてあろうが、その一枚のなかに込められたメッセージを表現することのできているもの。撮影者本人の主観、あるいはそれを見せた誰かの主観的に優れているもの。


「うまい写真」を撮るのには経験と勉強が欠かせない。一方で、「いい写真」を撮るのには豊かな感性・感受性、それにその写真について語ることについて耳を傾けてくれる大切な人が要る。自分が撮った写真は、すべてその撮影者にとっては「いい写真」であると思う。その写真を撮ったときの心情や、周りの環境を明確に知っているのは自分自身しかいない。すごく歩いてヘトヘトになった瞬間に切ったシャッターから生まれたのか、40度の炎天下の下で1時間以上も待ち続けたときの一枚なのか。そのときの感情がその写真を見返して思い出されるようであれば、それは本当に「いい写真」。でも、その時の気持ちが自分以外の誰かに伝わって、自分以外の誰かにも「いい写真」だと思われたら。そんな嬉しくて素晴らしいことはない。だから、友達から僕の写真が「いい写真ですね」と言われた時には本当にすごく嬉しかった。


時間のある日、僕は写真の整理をする。旅先の写真が多いけれど、一枚一枚を見返す度に、そのときの感情がやんわりとフラッシュバックする。写真には、遠い地のもう戻れない過去のどこかにおいてきた僕の感情が残っている。これらの写真が持つストーリーは、今は僕にとっての「いい写真」でしかない。けれど、いつか僕がお父さんになって、おじいちゃんになって、ひいじいちゃんになって…そんなときに写真が、恋人や奥さんや子どもや孫や大切な人に僕の感情を伝えるための大事で貴重な道標となってくれて、彼らにとっての「いい写真」にもなってくれたらどんなに嬉しいのだろう。
そんな思いを抱きながら、これからも写真を撮っていきたい。


僕の好きなthe band apartの"Photograph"のPVは光で描かれた映像だった。
僕のお気に入りのモノクロの写真を何枚か、ここに。
"Washington Monument"

"New Year's Day at Times Square"

"My shoes, 5years old"

"Ferry Building in SF"

"Live improvisation at Berlin"

"A girl met in Amtrak

"On rainy day, in MUNI F-line"

"Golden Gate Bridge"