自分自身が、人よりも強いエゴをもっていることを認めなければいけない。そして、その強いエゴは僕の弱い心を刺激して、無力感やストレスをもたらす可能性がある。だからこそ、それを乗り越えるために、そのエゴと上手くつきあっていくために、悩むのではなく、考えて決断して乗り越えていける人間になりたい。
誰にでもエゴはある。自分自身のことを認めてもらいたい、もっとわかってほしい、そんな自己顕示欲だ。この気持ちは、ある時には人を成長させる大きなエネルギーとなり、ある時には人を悩ませる大きなカベとなりうる。
僕は、他人からどう見られているかということ、どう見せていくのかということを人一倍気にするタイプであると思う。これは「かまってちゃん」であるということではなくて、人から見られる自分自身の姿や、団体の中での自分という存在が、自分は意識をしていなくても誰かに影響を及ぼす可能性があると感じているから。僕たちは無人島で1人で生きているわけではない。自分自身の言動は常に誰かに見られている。そうであるならば、自分の身形(みなり)は清潔に、真っ直ぐにしておきたい。そして、他人のことをみてくれで判断はしないようにする。そう生きていきたい。
しかし、そうやって他人や社会の中での自分を意識するということは、他人のことも気にするということであり、エゴの強い僕にはときに無力感を喚起させる。特に、活躍している同年代や友達の存在なんかが、その気持に拍車をかける。
例えば、研究室で勉強や研究をしているときに、同じ分野を学んでいる友達の圧倒的な知識量や研究に打ち込んでいる姿をみて、そうなれない自分を悔やんだり、そこまで頭の回転が早くない自分を悲しく思ったり。
例えば、夏のインターンシップで一緒に活動していた友達が、ビジネスコンテストにどんどん参加して成果をあげていて、就職活動に必死で取り組んでいたりして、どうしてその場に自分がいないんだろうと悔しく思ったり。
例えば、ずーっと続けてきたテニスを僕はやめてしまったけれど、それを続けてきてた中学高校の同期や後輩が活躍している姿をみてみたり。
もちろん、彼らがそうやって何か活動をしている間に、僕だってただぼんやりしているわけではない。「何かをしよう!」と決断したからその道を離れたのだけれど、そうなれる可能性があったという気持ちが、心の中で無駄に「機会損失」を計上して、焦りと虚しさを起こさせる。
つまり、僕はまだ芯ができあがってないブレブレの人間であり、僕はなんでも出来るようになりたい強欲な人であり、僕は些細なことにも心動かされて自分の決断を信じることができない弱い心をもっているということだろう。
弱い心に襲い掛かってくる、無力感。
この気持ちを、僕は留学中やバックパック中に嫌というほど味わった。言語の壁、専門知識のなさ、日本に対する無知、世界に対する無関心、自分自身の努力の足りなさ、理想と現実…
なんだか全てにやる気が無くなって、消極的になって、ベッドの上でボーッとして一日が過ぎた日もあった。無知な方がよかったなぁって。辛いなぁって。
でも、2年前、僕は確かにそれを乗り越えた。目が覚めたら急に英語が上手くなってるなんて夢のようなことはないのだからと自分に言い聞かせて、英語の参考書をジャパンタウンで買い求めて勉強したり、飲み会には面倒でも必ず参加して交流を深めたり、所属してた学生団体での取り組みに注力したり。その結果は、まだまだやりきったなんて言えないけれど、徐々に出始めている。
成長って、決して一歩一歩すすむものだけではない。、三歩進んで二歩下がり、一瞬止まって横道それて、グルっと回って気づいたらちょっとだけ前進。そんなもん。そんな成長もきっとある。
何かを手に入れるということは、何かを失うこと。
そんな当たり前のことが、僕は未だにわかっていない。何を手に入れるたいのか、それによって何を失うのか。それが理解できないままであると、僕の弱い心は常に悩まされ続ける。
悩むのではなくて、考える人間になりたい。考えるというのはつまり、決断をするということ。「決断経験値」を積めば積むほど、人は強く賢くブレなくなる。決断とは取捨選択をすることであり、取り続けることだけではない。挑戦することだけではない。失うもの、諦めること、捨てることまでも考慮して初めて、「考えて出した決断」と言える。
悩む気持ちがあるときは、考えるチャンス。どうすればこの状況を打破できるのか、どうしてこうなってしまったのか、考えて、行動を起こすために決断をする。
例えば、ビジネスコンテストとかに参加したいなぁという気持ちがありつつできていない自分がいるのは、きっと夏のインターンでプレゼンターをやろうという積極性がなかったことや、偉そうな態度をとっていたことや、知識・スキルが欠落していたことが原因。この原因を解決しないと、ビジコンなんて参加できないし、一緒にやろうと友達から声をかけられもしない、声をかけても誰もふりむいてくれない。
目が覚めたら、英語ペラペラになれている自分はいなかったように、或る日急に理想の自分になっているわけではない。理想の自分に足りないスキルを他人が持っているからといって、羨むことなく、どれが自分の目指す姿なのかを見極めて、足りないスキルを手に入れるために今日からでもできることを少しずつ、手の届くことからでいいから取り組んでいきたい。
それが、自分自身の弱い心を向き合うこと。数年後に、「あ、オレって成長してんなぁ」って実感できること。そう信じて、今日もまじめに生きていきたい。
大好きな珈琲の傍らで起こった、毎日の小さな出来事。 アメリカはSan Franciscoで1年間生活をし、ヨーロッパを周遊。その後もフラッと気の向くままに。日本では定量的な学問に勤しむ傍らで、感覚的に生きることが大事だと思ってる。 考えたこと、感じたことの備忘録。
12/06/2012
「政治家と話そう」
この前、youtubeサーフィンをしていたらこんな広告と出会った。
「政治家と話そう」
日本の未来について直接話し合う、オンラインミーティング。質問締め切り間近に、ほとんど利用していなくて眠ったままだったgoogle+のアカウントから質問を投げかけてみた。
僕の質問に対して、尊敬する友人と、同じくこの企画に興味を持ってくれていた初めましての方がコメントを残して、アドバイスや新しく考える種を与えてくれた。
実際に政治家と話しができるかどうかはまだわからないけれど、最近とても興味を持ち始めた政治に関して、各党のキーポイントをまとめたり、党首討論を聞いたりと、僕なりにできることを少しずつやっている。
いよいよ10日後に迫った選挙日。昨日告示が終わり、政党乱立する直近2回のわかりやすい選挙とは趣きの異なる闘いとなった。なにかにつけて「自由」が欲しいとか、なにかに縛られるようなことは嫌だと言う人が僕の周りにいる。けれど、軽々しくそういうことを口にする人は今回の選挙のように色々と選べる自由があることを喜んで、しっかりと考えて自信のある一票を投じるのだろうか。僕の直感では違う。多くの人は、選択肢が増えたことによって得られるものは開放感や自由ではなくて、無気力感だと思う。
「なにがなんだかわかんない。」
「どれ選んでも一緒じゃない?」
「もっとわかりやすくすればいいのに」
そんな言葉を言い訳に、選挙権を放棄する、無関心になっている僕と同年代の若者が多いと、選挙が行われる度にニュースになる。今回の選挙は今までよりもさらに無関心になりやすい要素が多い。多すぎる論点、10党を超す政党、ぶれる政治家の発言。
テレビやニュースで耳にする各党の政策や、論争は全て「方法」("what"&"how")である。この「方法」が多すぎるから、僕達は考えようとする前に投げ出してしまう。しかし、この「方法」が語られるときに考えればいいポイントは2つだけである。それは、「状況」と「目的」(2つ併せて、英語では"why"のことだと僕が考えている)だ。「方法」とは、「ある特定の状況」のもとで「ある目的を達成する手段」のこと。「状況」と「目的」のふたつを見定めることで、「方法」の有効性が決まってくる。わかってくる。方法ありきでものごとが進んでいくわけではない。
政治とは、僕の生まれたこの日本という船の行く末を見据え、しっかりと舵を取ることである。そうであれば、「状況」は自ずと「現在の日本の状況」であることがわかる。しかし、その次にある「目的」が選挙では見えづらい。もちろん政治家一人ひとりは確固たる目的・目標を持っていて個別には発信しているけれど、そこのレベルでの論争や直の声を聞くことはなく、結局、「方法」のつぶしあいとなってしまう。そうなってしまうと、どの政党を選べばいいのかという指針がブレブレで、ゴールのないマラソンを走るような、何ラウンドで終わるかわからないボクシングをするような、なんだか締まりのない惰性な気持ちで選挙に臨むことになる。
「目的」は、僕達一人ひとりが心に描く「明日の日本」である。「ビジョン」であり、物語の行き着く「ハッピーエンド」である。それを尋ねるのは野暮かもしれないけれど、僕にはどうしても日本の「ハッピーエンド」がどういうものなのかがどんなに情報収集をしてもしっかりとした形では思い描けなかった。ぼんやりとは考えたけれど、それが正しいのかわからない。だから、プロの人と、政治家の考え方と僕の考えをぶつけてみたかった。それが僕がGoogleが行った政治家と話そうという企画に応募した理由だ。
今朝の日経新聞朝刊一面、論説委員長・芹川洋一さんのコラムから一部を引用。
同じく今朝の、朝日新聞一面、政治部長・曽我豪さんのコラムから一部を引用。
みんな、選挙とか本気で考えているのかな。
もしも興味があるけれどあまりよくわからないという人、めっちゃ考えてるよって人は、声をかけて欲しい。是非語り合いましょう。僕の分かる範囲でよければ偏っていない知識をおすそわけもします。
選挙を楽しもう。
「政治家と話そう」
日本の未来について直接話し合う、オンラインミーティング。質問締め切り間近に、ほとんど利用していなくて眠ったままだったgoogle+のアカウントから質問を投げかけてみた。
#政治家と話そう
私は23歳の、工学を学んでいる大学生です。米への留学、中東やヨーロッパへのバックパック、祖父が亡くなったこと、守りたい人が出来たことなどから、日本の政治や将来というものにとても興味を持ち始め、日々、新聞を読みくらべ、ネット・TV上で討論を聞いています。
私が政治家の方と話したいのは、討論で話題となっているTPPや増税というさまざまな論点に関するひとつひとつの"what"や"how"ではなく、その先にある大きな"why"、この国の目指すべき「ビジョン」です。世界の中での地位が相対的に、さらに絶対的に弱くなっている日本が、50年後、100年後に目指すべき姿が何なのか。それをしっかりと政治家の方とシェアすることができて初めて、一つ一つの答えを出すのが難しい論点に自分なりの賛成・反対を見つけられるとおもいます。
「老楽国家」「ものづくり大国」「日本独自の文化やサービスを強める」「ポジティブガラパゴス」色々なビジョンが考えられると思います。政治家の方がどのようなものを目標として考えているのか、それはなぜか、「ビジョン」と"why"について話ができたら嬉しいです。
僕の質問に対して、尊敬する友人と、同じくこの企画に興味を持ってくれていた初めましての方がコメントを残して、アドバイスや新しく考える種を与えてくれた。
実際に政治家と話しができるかどうかはまだわからないけれど、最近とても興味を持ち始めた政治に関して、各党のキーポイントをまとめたり、党首討論を聞いたりと、僕なりにできることを少しずつやっている。
いよいよ10日後に迫った選挙日。昨日告示が終わり、政党乱立する直近2回のわかりやすい選挙とは趣きの異なる闘いとなった。なにかにつけて「自由」が欲しいとか、なにかに縛られるようなことは嫌だと言う人が僕の周りにいる。けれど、軽々しくそういうことを口にする人は今回の選挙のように色々と選べる自由があることを喜んで、しっかりと考えて自信のある一票を投じるのだろうか。僕の直感では違う。多くの人は、選択肢が増えたことによって得られるものは開放感や自由ではなくて、無気力感だと思う。
「なにがなんだかわかんない。」
「どれ選んでも一緒じゃない?」
「もっとわかりやすくすればいいのに」
そんな言葉を言い訳に、選挙権を放棄する、無関心になっている僕と同年代の若者が多いと、選挙が行われる度にニュースになる。今回の選挙は今までよりもさらに無関心になりやすい要素が多い。多すぎる論点、10党を超す政党、ぶれる政治家の発言。
テレビやニュースで耳にする各党の政策や、論争は全て「方法」("what"&"how")である。この「方法」が多すぎるから、僕達は考えようとする前に投げ出してしまう。しかし、この「方法」が語られるときに考えればいいポイントは2つだけである。それは、「状況」と「目的」(2つ併せて、英語では"why"のことだと僕が考えている)だ。「方法」とは、「ある特定の状況」のもとで「ある目的を達成する手段」のこと。「状況」と「目的」のふたつを見定めることで、「方法」の有効性が決まってくる。わかってくる。方法ありきでものごとが進んでいくわけではない。
政治とは、僕の生まれたこの日本という船の行く末を見据え、しっかりと舵を取ることである。そうであれば、「状況」は自ずと「現在の日本の状況」であることがわかる。しかし、その次にある「目的」が選挙では見えづらい。もちろん政治家一人ひとりは確固たる目的・目標を持っていて個別には発信しているけれど、そこのレベルでの論争や直の声を聞くことはなく、結局、「方法」のつぶしあいとなってしまう。そうなってしまうと、どの政党を選べばいいのかという指針がブレブレで、ゴールのないマラソンを走るような、何ラウンドで終わるかわからないボクシングをするような、なんだか締まりのない惰性な気持ちで選挙に臨むことになる。
「目的」は、僕達一人ひとりが心に描く「明日の日本」である。「ビジョン」であり、物語の行き着く「ハッピーエンド」である。それを尋ねるのは野暮かもしれないけれど、僕にはどうしても日本の「ハッピーエンド」がどういうものなのかがどんなに情報収集をしてもしっかりとした形では思い描けなかった。ぼんやりとは考えたけれど、それが正しいのかわからない。だから、プロの人と、政治家の考え方と僕の考えをぶつけてみたかった。それが僕がGoogleが行った政治家と話そうという企画に応募した理由だ。
今朝の日経新聞朝刊一面、論説委員長・芹川洋一さんのコラムから一部を引用。
経済力がどんどん落ちて、もはや二流国家になりさがろうとしている日本。ぎりぎりのところで立て直すにはどうしたらいいのか。政党に求められているのは、国の力をみなぎらせつための政策のきそい合いだろう。
(中略)たしかに脱近代で、つつましやかに生きていくのもひとつの考え方かもしれない。しかし、子や孫の代まで豊かで自由な生活を営むためには、一流国家で踏みとどまろうとする頑張りがいるにちがいない。
(中略)政党には、明日の日本をたしかなものにするための大きな物語を語ってもらわないと困る。そうしないと有権者は判断を間違える。ひとつの争点だけで選挙をやった結果、何がもたらされたかは過去2回が教えるとおりだ。
各党の政権公約に盛り込まれた各論の点検だが、そのとき大事なのは、政策を個別にみて比較するだけでなく全体としてとらえることだ。(後略)
同じく今朝の、朝日新聞一面、政治部長・曽我豪さんのコラムから一部を引用。
わかりにくい衆院選である。
正統派乱立、争点はあまりに多種多様で、賛否で仕分ければ対決構造はあまりに複雑だ。信を得てどんな政権が生まれるか、先行きの見通せなさは増すばかりだ。
過去2回は違った。(中略)しかし、単純明快で単線にすぎたその衆院選が、日本によりよきものを残したか。
(中略)わかりにくいからといって、この選挙がダメだと見切るには早すぎる。各政党に不明な点を答えてもらおう。どこで合意でき何で争うか、その全体像がみえて初めて、来たる政権像を選択肢が姿を現すのだ。
(中略)わかった気は禁物だ。丁寧に確かめ直しバージョンアップしたい。
12月16日は全国で、しばし鉛筆が止まりため息がもれる光景が続出しよう。書かずに帰る人もいるだろう。それでも、正しくきちんと悩む行為こそが、日本の政党政治を出直しさせる第一歩となるはずだ。
みんな、選挙とか本気で考えているのかな。
もしも興味があるけれどあまりよくわからないという人、めっちゃ考えてるよって人は、声をかけて欲しい。是非語り合いましょう。僕の分かる範囲でよければ偏っていない知識をおすそわけもします。
選挙を楽しもう。
12/04/2012
I'd like to have my ego tagging along.
12月、手帳を新しくした。
一昨年からずっと使い続けているのが、無印良品のシンプルな手帳。マンスリーでざーっと予定が見渡せればそれでいい。
家族の誕生日、じいちゃんの写真、友達の住所、忘れたくない言葉を背表紙に書き写し、2013年を向かえる準備をはじめる。それと同時に、今年の手帳を読み返してみる。
「あぁ、いろんなことがあったなぁ、いろいろな人と出会ったなぁ」
と、しみじみ感じ入る。書き写した好きな言葉を、読み返す。
"I'm a part of all that I have met."
「自分はこれまで出会ってきたもの全ての部分」
1年がまた終わる。
人はさまざまなことで悩んだり、失望したり、場合によっては死んでしまおうかとか考えたりする。特に年の瀬は普段と違って余計なわずらわしさがむかうからやってくる。気温の寒さと心の寒さが同時に襲いかかってきてきて、身も心も慌ただしくなる。さらに、就職活動が本格化するのがこの時期。僕の同期の大学の友達や弟の就職活動が始まった。友達からウェブテストのヘルプを頼まれたり、OB訪問やなんやの集まりから帰ってきた弟と夜中に数時間語り合ったり。ソーシャルネットワーク上には様々な情報が飛び交う。嫌でも人の動向が気になってしまう季節。情報収集をすることと、雑音に耳を傾けることは違う。その二つを混同していると、心に迷いが生じる。就活中も、日々の生活でも。
「隣の芝生は青い病」
昨日は久々に会った友達と街を歩きながら、こんな話をしていた。人間は誰でもエゴがある。現在の自分が置かれた立場や環境と、他人の状況を比較してしまって、なんだか悲しい気分になったりする。でも、それは当たり前のことだ。他人のことが気にならない人はいない。ようはそのエゴと、どうやって折り合いをつけて行くかということに尽きる。このエゴや欲望や煩悩というものは、人間が存在していいくための、新たな一歩を踏み出し続けるエネルギーにもなるから無視してはいけない。でもそれは同時に、人間を耐えず苦しめて、人生を台無しにするような負のエネルギーにもなりうる。そんな自分の身の中にある強く大きなエネルギーをコントロールすることが本当に大事で、それは同時に一生かけて行うとてもむずかしい作業なのだと思うけれど、具体的にはつねに誠実でいること、感謝の気持ちをもつこと、反省の気持ちをわすれないでいること、挑戦し続けること、そんな当たり前の日々のことを大切に行なっていくということの積み重ねであると思う。
週末に、久々に祖母を訪ね、仏壇の前に座り祖父に挨拶をした。
祖父が亡くなってから9ヶ月が経過したけれど、いまでもよく涙をながす。僕がいまここに生きているという当然は、祖父が存在していたから成り立っているだと考えると感謝の気持ちが溢れて本当に胸が苦しくなる。祖父の死以来、なにげない日常に涙することが多くなった。優しさと悲しさの涙が流れるところに、本物の幸せが存在する。僕の幸せはきっと大金持ちになることでも、誰かを騙すことでもなくて、みんながなにげない日常を幸せに生きていくようなものを築き上げることなのではないかと最近感じる。
言い古された言葉であるけれど、恋愛と就職活動は似ている。
でもそれは、自分に足りないものを補ったり欲望を消化するための薄っペらい恋愛とのアナロジーではない。本気の恋をすると、苦しくてもその人になにかを与えたくて仕方がなくなる。利他の心、無償の愛、キリスト教で言われる「愛」が生まれる。そういった本気の恋愛とのアナロジーだ。そんな気持ちを抱けるような、与えられるではなく与える側に将来的になれるような会社や団体で働けることが本当の幸せだ。
来年の就活になんとなく思いをはせながら、アナロジーで使われる恋や愛についても考えてみる。誰かを愛するってことは、誰かから何かを一方的にしてもらう・してあげるだけではない。さらにはただお互いの似通っている場所を見つめ合って共感するものでもない。共に同じ方向を見つめること、ベクトルの向きを合わせることだと思う。そのためにはやっぱり、同じ空間や同じ時間をなるべく共有している必要がある。そうでないと、人は毎日毎日ちょっとずつ、人生というベクトルの向きも大きさも変わってくるのだからその変化に対応できなくなる。遠距離恋愛なんかが難しいのはこういうところからだろう。
恋愛が苦しいのと同様に、就職活動も苦しいもの。でもそこから得られるものもたくさんある。妥協せずに、みんな頑張って欲しい。そして(おそらく)来年就活をする自分も、このブログを読み返して「こんなこと考えてたのか…」と振り返って、頑張って欲しい。未来へのエール。
登録:
投稿 (Atom)