10/06/2012

10度だけネガティブな世界

ヒトの骨格や身体能力というものは、生活している環境に適応するためにゆっくりとゆっくりと変化する。
それをダーウィンは”進化”と読んだけれど、”退化”となることもある気がする。


長い旅からの帰り、成田空港から都心へ変える電車の中、同じ車両にのる人々をぼーっと見ていた。同じくどこかからの旅の帰り道出会ったのだろう、たくさんの人々がスーツケースやカバンを背負い、座席に座る。ビジネスマン風の人もいれば、キャピキャピとした女の子の集団もいる。しかし、する行動は同じ。うつむきがちにスマホを開いてそれを見つめている。液晶画面の向こう側でつながっている誰かに、「おかえり」の報告をしているのだろうか。


今日は電車にたくさん乗った。普段、自転車で行動することが多いので、駅で電車を待つ人を観察することはあまりない。何気なくホームに立つ人々を見てみると、みな直立不動の姿で電車を待っている。しかし、直立といっても真っ直ぐではない部分がある。首と右手。右手を少し持ち上げ携帯を支え、首を下にカクッと曲げて、携帯電話をのぞき込む。ほとんど全ての人が。電車の中でもやはり、首を下に向けて携帯を見つめている。
もしも携帯電話がなかったら…想像力を駆使して、周りの人の手から携帯電話だけを消してみる。みんな、なんだか、肩を落として足元を見つめているような格好である。少し悲しくなった。


スマホの普及、SNSの普及、それによって生じる様々な良いこと悪いことが研究され語られている。けれど、今日僕が気になったのは、首を少しだけ曲げて下を向く、うつむいた状態。そういった姿勢をする人が本当に多いなーということ。携帯を操るときにわざわざ液晶画面を目線の高さに持ってくる人はほとんどおらず、ましてや目線より高くする人は皆無であり、かならずうつむいた姿勢をとる。操る手が顔より下にあるのだから当然のことだろう。


携帯を操作するときに、どれくらいうつむいているのか。適当に360度のうちの10度、首の可動域が真上から真下までであるのならわずか1/18にあたるこの角度だけうつむいていると仮定してみる。人間がこの地球に生まれてから今までで、この僅か10度だけかもしれないけれど、首を曲げて視線を下に落としている時間を比較してみると、ここ数年でその長さは恐ろしいほど長くなってしまったと思う。太古の昔は誰かとコミュニケーションを取るときに相手の顔を見つめなければならなかった。自然に正眼に構えることになる。それが今は手のひらの上で行われるために、目線を落とさなければならない。


目線を下げる、見下す、足元を見る、頭を下げる、うつむく、目を伏せる…
多彩な日本語表現の中で、10度だけ首の角度を下げた様子を表したこういったものは、どれもこれもネガティブな印象を与える。そんな格好をしている人が今の時代には、世界には、溢れている。
携帯を持っているんだから仕方がない、その通りだが、手元がみえないだれかの後ろ姿からは、その人が何かに悩んで下をむいているのかどうか、ただ携帯を見つめているのか検討もつかない。20年前であれば、ホームの縁に立ち線路をじーーーーっと見つめるおじさんがいれば、「飛び込もうとしてるんじゃないだろうか…」なんて想像が後ろ姿からも察知できたかもしれないけれど、今では無理だろう。後ろに立つ誰かも、10度下を見ているのだから気付きようもない。


こんなにみんなが下を向く環境が多いのだから、次に生まれてくる僕らの子供たちは、もしかしたら少しだけ首の角度が曲がった状態で生まれてくるかもしれない。そしてこの環境がずーっと続けば、普段からみんなが少しだけうつむいている、10度だけネガティブな世界が広がってしまうかもしれない。
適応した結果だからそれは”進化”と呼ばれるのだろうか。僕達の子孫は、将来、
「いやー昔の人達は、携帯を見るためにわざわざ首を曲げなきゃ行かなかったなんて不便だねー」
なんて会話を、手のひらをみつめながら誰かと語り合っているのだろうか。
それを僕は”進化”とは呼べない。”退化”である気がしてならない。


チュニジアで流れる涙”という記事の中で語った通り、天を仰ぎ見てそこに存在する自然の美しさに気づいて、僕は本当に感動した。
そして今年の5月22日の金環日食の日にも、”鳥肌”で述べたように、僕はみんなが太陽を見上げているというその姿や、一体感に感動した。
ライブなんかでも、ドーム公演で座席からアーティストを見下ろすよりも、野外コンサートで目線を上げてステージを見るほうが、なんとなく熱い声援をかけやすい気がする。
気持ちが晴れて感動が生まれるのは、間違いなく、目線をあげたときのほうが多い。


10度だけネガティブな世界よりも、10度だけポジティブな世界を。
なんだか気分が落ち込んでいるときは、液晶画面の奥にいる誰かに助けを求めるのもよいけれど、単純に目線を上げてみてはどうだろう。根本的解決にはならないかもしれないけれど、少しだけ、10度だけ、気分が晴れる可能性がそこにはある。僕はそう思う。






時差ボケで眠れない真夜中に

旅から帰ってきてから、なんだかモヤモヤとした日々を過ごしている。
物凄くたくさんのこと、紛争のことから宗教のことまで、答えのないことを考え続けていたのだけれど、そういったことを考えるという行為すらなんだか無意味に感じてしまうような日本の平和さ。
専門は何を勉強しているのか、電気工学だ。だったらそれだけに集中して興味を持って勉強することが出来れば良いのだけれど、そうすることもできず、全く関係ない本を読んだり、美術を観に行ったり、新聞をじっくり読んだりして、世界という視点から物事を考えていたいという気持ちが収まらない。

"Think globally, act locally."

この有名な言葉を心に刻み込んで、興味を持ったり考えるフィールドは広く大きくして、実際に行動するのは自分の目の前にあることにしようと決心したのは留学を終えた直後の1年前。それを今までしっかりとやってきたつもりである。
しかし、それからthinkだけが暴走して無限の宇宙に向かい僕の頭を悩ませて、actに身が入らずthinkとのギャップが広がっていき焦燥感を感じさせる。

それは例えるならこんなイメージ。
大きな船にたくさんの人々と乗っていて北極点を目指す。気候、氷山の位置、他の船との関係…様々なことを気にかけながら船はゆっくりと北に、北に、すすんでいく。
しかし、その船の中のある一室の中で暮らしている僕は、共に生活する人々と円滑な船上ライフを送るために充てがわれた仕事をしっかりとこなす。掃除、電気機器の修理、誰かの退屈を笑わせて軽減させる、食事をつくる、本を書く、とか。そういったことをしている一人ひとりは、東西南北、全く別の方向に向かって活動している。でも僕らをのせる豪華客船なのか、戦艦なのか、タイタニックなのかわからないけれど、とにかく”日本”という名前の船は、北極点というゴールを目指している。凄くマクロに考えれば。
だから、僕自身というミクロな立場になって行動をおこすときには、自分のやりたいことをやって、目の前にあるできることをこなして、南に歩いてもいい。結果的にその行動は、自分が乗っている船の北上線路へのベクトルに転換されている…
だから安心しろ、船の行く先を知っていたりそれを考えるのは大事なのだけれど、船員の1人である自分がそれを全て知っている必要はなくて、自分の出来ることをすればいいんだ。

そんな姿がイメージできているのだけれど、生まれ持った僕の糞真面目さが、船上の客室の中でも北に向かって進まないといけないんじゃないかという気持ちを抱かせて、その気持を捨て切れない。どうしたものか。

旅の後半から、あまり深い眠りにつくことができずに、寝てても脳が活性化しているようで、変な夢をたくさんみたり訳のわからないアイデアがポンポン浮かんできたり。
そこに時差ボケもまじっているのか、妙に頭が冴えていて眠れない。
それでも不思議な事に、朝起きた時には比較的すっきりしているのだけれど。


こうやって思い悩んでいることもいつかはきっと忘れるのだろう。備忘録。再び寝ます。

10/02/2012

旅のおわり

今年のはじめに、僕は恋に落ちた。叶わぬ恋であった。それでも、初恋のとき以来失ってしまってもう訪れないのではないかと思っていた、恋い焦がれて苦しくなる感情を味わった。
それと時期を同じくして、本当に大好きだった祖父を失った。旅先にいて最期を看取ることもできず、葬儀に出ることも叶わず、帰国して仏壇の前でただひたすら泣いた。

今回の旅に持ってきた本はどれも僕の心の琴線に触れるものが多く、メモ帳に言葉が溢れていった。その中でも、伊集院静の旅のエッセー「旅行鞄にはなびら」の中にある言葉の数々は、今年のはじめに経験して、今回の旅の中で考え続けた「恋愛」「生死」「美しさ」「涙」…そんな漠然とした考えにひとつの道筋を見せてくれた。

”私は花のうつくしさが、ごく自然におさまる場所が、私たちの身体の中にあるのではないかと考える。私はその場所に、人間が本来持っている”美しいものへの敬愛”があるのではと思う。なら、その場所には、花や、その他の美しいものがあふれているのだろうか。私には、そうではない気がする。私は、その場所のそばには、人が生きることで遭わざるを得ない、知らざるを得ない、別離や喪失といった哀しみがあるのではと思う。”

” 現代人は思っていることを口にし、己を主張する。しかしそれだけが人と人とを繋げるものなのだろうか。そうであるのなら人と人とがこんなにも諍う世の中になってしまうはずがない。むしろ言葉を持たないものの方が相手の本質を見ている時があるのではないだろうか…。
(中略)言葉に出さなくとも、誰かが誰かを思うことは人間の根元にあり続けるものであり、美しいことなのだ、と私はあらためて思った。”

”人は哀しみにであってさまざまなことに気付く。それほど私たちの暮らしは、普段、生きることに追われているのだろう。だかそれでいいのだと、この頃は思う。”

最後の引用の終わりにあるとおり僕たちは普段は生きることに必死で、美しさや死というものに気がつかないことが多い。でも伊集院さんが言うように、それでいいのだと思う。
毎日毎日四六時中、死ぬことを恐れていたり恋い焦がれて恋愛に関することばかりを考えていたら、それは変人だ。仕事とか勉強とか将来のことを考えること、今を精一杯生きること、理性的になって感情を抑えること…それらは人間が知恵と共に得た素晴らしい能力のひとつである。

今回の旅の最中、僕はとにかく涙を流した。素晴らしい自然の姿を見て感動して泣き、この光景を祖父にも見せてあげたかったと思い泣いた。テレビの中紛争で人が怪我をし子供が叫んでいる映像を見て泣き、オバマ大統領が国連総会で話したリビア米国大使の話を読んで泣いた。友達と恋愛に関する話をして泣き、紛争や世界に関して熱く語りながら泣いた。
旅という、社会を生きることから切り離されて、自分の中の感受性が爆発したのかもしれない。

チュニジアを発ち、トルコ・イスタンブールで再びトランジット。一泊して、明日の夕方の便で日本に帰る。
旅が終わり、「生きる」ことが始まる。満点の星空を見て感動したり紛争の様子を見て哀しむことは減って、研究とか仕事とかそういったことに思い悩むことになる。けれど、それでいいのだと思う。
旅を通じて考え悩んで涙を流した分だけ、僕の心のバケツは広く深く強くなった。そこに今度は、たくさんの「生きる」要素を詰め込んでしっかりと中身のあるものを創り上げたい。

学んで、遊んで、笑って、悩んで、しっかりと生きよう。
飛行機の中、オレンジに染まる雲海の上、旅を振り返り、生きるために先に進む。