2/10/2022

昔で言う「藩」、今で言う「会社」

 映画を見ました。

『七つの会議』原作:池井戸潤


The 池井戸潤ワールド全快な痛快お仕事劇を舞台に、野村萬斎、香川照之、及川光博、片岡愛之助といったキャラしか立たない役者達が役を演じる。

「倍返しだ!」で流行した同系列のドラマが可愛く見えてしまうような癖だらけの映画でした。

ストーリーは、もう本当に池井戸潤の小説・劇にあるあるの展開なのだけれど、サラリーマン生活が長くなってきたせいだろうか…昔よりも中間管理職の苦悩葛藤・ジレンマがわかるようになってきた気がする。

この映画、原作者・監督が一番伝えたかったのは、エンドロールと共に流れる野村萬斎演じる主人公の独白シーンであると思う。

自分が勤務している会社はメーカー・ものづくりの会社ではないが、技術力をコアとして、非常に大きな構造物の設計・建造の監督を実施する。

つい数ヶ月前まで、自分も建造現場の最先端に立って勤務していたが、そこではノルマ・コスト・品質・安全が常に天秤に図られて仕事が進んでいく。

もちろん安全第一・品質第一というのは当然だけれど、さまざまなプレッシャーの中でそれをキープし続けるのは難しい。

そんな現場を知る人にとって、そして僕のように日本と海外の現場・職場での勤務経験が長い人にとって、野村萬斎が語る次の独白は強く心に響きのではないだろうか。

備忘録のため、書き起こした台詞をここに残す。

この世から、不正はなくならない。絶対に。


世の中でデータ偽装・隠蔽をやってるどの会社も一緒。何度だってやるってことです。


列車シートのデータ偽装をやってしまった日から20年間、ずっとこのことだけを考えていました。


人間ていうのは愚かな生き物ですからねぇ。


特に日本の場合、会社の上司が世間の常識よりも大事になってしまう。


なんてかこう、日本人のDNAに組み込まれてるって言う気がするんですよね。


藩のために、命をかける。


まぁ、カッコいい言い方をすると「侍」の生き様って言うんですかね。


昔で言う「藩」、今で言う「会社」。


それを生かすためなら、人の命より会社の命を優先しちまうっていう。


欧米の人が聞いたらそんな会社なんかとっとと辞めて


他に移ればいいって思うんでしょうけど。


侍はさぁ、藩から出されるのは負けだと思ってるんですよ。


忠誠心って言えば聞こえはいいけど、逆に、守られてもいて。


まぁ、そういう、持ちつ持たれつの日本独自の企業風土が


この資源も何もないただの島国を先進国にまで押し上げたという功績もあるわけで。


いいこともあれば、悪いところもある


一つ言えることは、ひたすらガキみたいに言い合っていくしかないんじゃないんですかね。


悪いことは悪い、命より大事なものはないって。


それができれば、なくなりはしないが、データ偽装・隠蔽なんかは


減るんじゃないかって思いますよ。







8/26/2018

平成最後の夏の終わり。

2018年、まだ終わっていないけれど、今年の日本の夏は強烈だった。


豪雨、猛暑、数多の台風襲来…暑い暑いと僕もメディアも騒いでいたら、今度は秋が一足も二足も早くやってきた。この週末、東京も新潟も最高気温は30度を下回り、湿気もぐんと下がり、水蒸気を含まない空の色は青く澄み渡っていた。
今日は一日東京をぶらぶらと散歩しながら街並みや道行く人々を眺めていたけれど、心なしか町も人々も余裕があってやわらかく、優しい。特別なことがあった日ではないけれど、今日はきっと多くの人にとって良い日だったのではないだろうか。


今朝、1つのコラムを読んだ。
平成ラストサマー、消費波打つ(日経MJ)
 書き出しは次の言葉で始まる。
今年の夏はちょっと違う。そう、平成最後の夏――。時代が動くこの瞬間、パートナーを探したり、平成を懐かしむイベントに参加したり、盛り上がらずにはいられない。時代の区切りが人々の心を揺さぶり、高ぶった感情は「エモさ」になってあふれ出す。
有料の記事であるため続きが読めない人もいるかもしれない。記事の続きは平成生まれの若い世代が、「平成ラストサマー」をイベント化、メモリー化、ブランド化し、アルバイトや消費活動へと動くさまを描いている。コラムであるので深い内容ではないが、なんとなく続きを読んでしまう文章だった。
興味をひかれた一番の理由は、僕も当事者だから。平成元年に生まれ、今までの人生のいたるところで平成ブランドを使ってきた。だから平成が終わっても変わらず「平成」を感じながら生きていくだろう。「昭和っぽい」が古めかしいと同義で使わるように、「平成っぽい」がいずれは古さやダサさを形容する言葉になったとしても。


「平成最後の…」という言葉を僕がメディアを通じて頻繁に聞き始めたのは、この夏の、特に終戦関係のニュースからである。大学でジャーナリズムを学んでいるときに、沖縄へのフィールドワークを通じて先の大戦をどのように伝えるか、何を後世に残すべきかという話を当事者・ジャーナリストからたくさん聞いた。その中で、ある新聞記者が言っていた次の言葉が記憶に残っている。
「毎年夏になると、新聞記者は大変なんだ。ジャーナリズムの使命として、終戦はとりあげなければならない。でも、さすがに70回もとりあげているから、切り口がみつからない。どうやって今年の終戦を記事にするか、人々の心に残るようにするか…毎年試行錯誤です。」
今年は平成という一つの時代が終わる節目となり、しかもそんなことは通常は予期できないことである。そのため、各メディアがこぞって言葉の掛け算をしてオリジナリティを演出していた。
「平成最後」×「終戦記念日」
「平成最後」×「夏休み」
「平成最後」×「お彼岸」、とかとか。
何より今はマスメディアではなくひとりひとりが、とりわけ流行の風を敏感に掴み取る若者が、こういった言葉の掛け算やオリジナルな発信を行っていく。
彼らの時代の風を感じ取る能力は絶大だ。
そんなことを先の記事では取り上げていた。


平成最後の秋が来て、冬が来て、そして春が来て、平成は終わる。
時代は年号を変えるだけで継ぎ目なく連なっていくけれど、人々はそこに大きな意味を見出す。大晦日の終末感、新年の新鮮さ、そんな感情と同じようなものをいだきながら。

平成ラストサマー。僕の生まれた年代の最後の夏が終わる。
でも、これは元号だけに限ったことではないけれど、終わりは常になにか別のことの始まりである。
まだ発表されていないから誰もがそれを表現できずに言葉の掛け算遊びができないが、「新たな元号」×「なにか」が半年もすれば世間を騒がせるだろう。

それまではしばらく、「平成最後」を名残惜しみつつメディアと一緒に騒ぎ立てよう。
終わりよければすべて良し、それがいいかどうかはわからないが、「平成っぽい」が少しでも明るいイメージと共に後世に伝わるように。







5/06/2018

『愛するということ』

結婚しました。

2017年10月29日、4年間付き合っていた彼女にプロポーズし、その後家族の顔合わせ、結婚式場の予約などを済ませていたりしていたらあれよあれよと時間が過ぎ去り、入籍が4月22日。結婚式は来年の予定。
新しく戸籍を作るとか、両親の戸籍を出ることとかを経験し、「籍」という今まではあまり意識しなかったものと直に触れ合って、日本って今でも集団的家族主義の名残があるんだなぁと驚いたり。
戸籍の筆頭者になったのだから頑張らなければ!という変な気負いは今のところない。けれど、大好きな彼女→妻と共に歩み出すための1つの枠組みを社会からもらえたことは素直に嬉しい。未依、これからもよろしく。


プロポーズして結婚することが決まってから、「結婚」に関する本を何冊か読んだ。
結婚準備本、出会い本、別れ本、婚活本、いい女本、お金本…
恋愛から結婚、そして別れ(離婚も、死別もある)に至るまでの過程で、多くの人が多様なストーリーやフィロソフィーを築き上げ、文章化して残している。本だけでなく音楽でも、絵画でも、詩でも、ダンスでも、「結婚」や「愛」は太鼓の昔からある普遍のテーマである。
恋は、愛は、結婚は、それだけ人の心を強く動かすものであるということ。
そしてただひとつの答えがないものでもあるということ。
当たり前のことだけれど、改めて絶対方程式のない恋愛や、ゼロイチの電脳世界からは生まれないであろうこの感情は、すごいと思う。

どの本も面白かったのだけれど、やっぱり恋愛や結婚に際して僕がいちばん好きな本、そして自分の「愛」に関する考え方の根幹となっているものは、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。
(→Amazon:愛するということ 新訳版

ゴールデンウィーク中に実家の片付けをしていたら昔読んだ付箋だらけの本が出てきて、改めて読んでみた。こんなに沢山も「愛」という言葉が出て来るにも関わらず、甘くなく、至極現実的であり、それでいて愛を直視してその重要性を説いている。
ロマンティックではない、リアリスティックな愛。僕はそれを本物の愛だとも感じる。
夫婦や家族や親友という長い期間を共にする人達との間において、言語化するのは難しいけれど確かにある「絆」や「信頼」、それがフロムの言う「愛」である。

以下に、沢山の付箋箇所から、特に心に残ったものを抜粋。
もしこの中に響く言葉があったら、是非この本を読んてみてもらいたい。
僕らのような新婚さんにも、出会いを求めている人にも、パートナーのことを愛せなく鳴った人にも。きっと、なにか大きな気付きがあるはずです。読んでみて、愛ってなんだろうね、難しいねと語り合うこと、それだけでもきっと良い時間になるはず。

以下、愛するということ(新訳版)紀伊國屋書店より引用。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知力と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし、今日の人々の大半は、後者の方を信じているに違いない。(p12)
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。(P68)
もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。 ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。それどころか、誰もが、「愛する」人以外は誰も愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ信じている。これは、私たちが先に述べたのと同じ誤りである。つまり、愛が活動であり、魂の力であることを理解していないために、正しい対象を見つけさえすれば、後はひとりでにうまくゆくと信じているのだ。 (p76)
幸福な結婚に関する記事を読むと、かならず、結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。(中略)同じように、結婚カウンセラーは言う―夫は妻を「理解」し、協力すべきだ。新しいドレスや料理をほめなくてはいけない。いっぽう妻のほうは、夫が疲れて不機嫌で帰宅したときには優しくいたわり、夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときには心をこめて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、理解しようと努めるべきである、と。
 (中略)愛と結婚に関するこうした考え方では、堪えがたい孤独感からの避難所を見つけることにいちばんの力点が置かれている。私たちは「愛」のなかに、ついに孤独からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界に対して、2人から成る同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の情だと誤解されている。(p134)
現代人は自分を商品化してしまった。自分の生命力を投資だと感じ、自分の地位や人間市場の状況を考慮しつつ、その投資によって最大限の利益をあげようと必死になっている。(p156)
愛の本質について先に述べたことに従えば、愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。(p176) 
愛の修練にあたって欠かすことのできない姿勢がある。これまでは、それについて暗にほのめかすだけだったが、ここではっきりと論じる琴似私用。というのも、それは実際に人を愛する基盤だからだ。何かというと、それは能動性である。(p190)